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危機管理を担当する内閣安全保障室の初代の室長を務めた佐々淳行氏が10日、東京都内の病院で死去しました。87歳でした。

佐々氏は警察庁で、昭和30年代から40年代の学生運動や、昭和47年の連合赤軍浅間山荘事件などを担当し、その後、危機管理を担当する内閣安全保障室の初代の室長を務めました。

退任することになったのは、靖国神社の小堀邦夫宮司(68)です。

小堀宮司をめぐっては、一部の週刊誌がことし6月に行われた神社の運営などを話し合う委員会の中で、「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていく」などと天皇陛下を批判する発言をしたと報じられています。

靖国神社によりますと、調査に対して宮司はこうした内容を発言したことを認めたということで、不適切な発言で混乱を招いたとして、宮内庁に謝罪するとともに10日までに退任する意向を伝えたということです。

宮司はことし3月に就任したばかりで、神社のトップが半年余りで退任する事態になりました。

退任は、今月26日に開かれる総代会で正式に決まるということです。

靖国神社は「委員会での各委員の発言などの回答は控えます」とコメントしています。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/10/01/200210

 小学館は累計1985万部のベストセラーとなっている「学習まんが少年少女日本の歴史」の20年ぶりの新刊として、10月5日に「22巻 平成の30年」を発売する。

 小学館によると、平成を通史として描く学習漫画は初めて。祖父母宅に帰省した家族の視点から平成を振り返る。

 1989(平成元)年に日経平均株価が史上最高値となった後にバブル崩壊で経済が低迷したこと、93(同5)年の細川護熙政権誕生で与党は自民党中心、野党は社会党中心の55年体制が崩壊したこと、95(同7)年の阪神大震災、2011(同23)年の東日本大震災など度重なる自然災害が起きたことなどが紹介される。また、海外での中国の天安門事件やドイツのベルリンの壁崩壊のほか、直近では安倍晋三首相の経済政策アベノミクスや、学生団体SEALDsによるデモなども盛り込まれた。

 担当編集者の安達健裕さん(52)は「さまざまな出来事を並べると政治・経済の混乱や暗い話題が目立ち、慌てて明るい出来事を探しました」と話す。そこで、98(同10)年のサッカーW杯初出場や、2011(同23)年のサッカー女子W杯優勝、13(同25)年の東京五輪開催決定などスポーツ界の話題に加え、16(同28)年の米・オバマ大統領(当時)の広島訪問などを取り上げた。

柴山文部科学大臣は今月2日の初閣議のあとの記者会見で教育勅語についての見解を聞かれ「現代風に解釈されたり、アレンジしたりした形で使える分野は十分あり、普遍性を持っている部分が見てとれるのではないか」などと述べ、野党から批判が相次いでいます。

これについて柴山大臣は記者会見で「教育勅語そのものを離れて、友人を大切にするといった考えは現在の教育にも通用する内容もあるという意味から、普遍性を持っているのではないかと申し上げた」と述べました。

そのうえで「憲法および教育基本法に反する内容の教育を強いることがあってはならないのは至極当然だ。教育勅語を復活させようとか、そうしたことを言っているわけではない」と述べ、野党の批判はあたらないという認識を示しました。

循環しないようにしたのは老人。

https://d1021.hatenadiary.jp/entry/2018/09/21/200120(私の学生時代と比べても、今の若者は壮絶なほど知性が劣化している。)

山下貴司 - Wikipedia

フルブライト奨学生として、コロンビア大学ロースクールに留学。

岡山県岡山市生まれ。岡山市立宇野小学校、岡山大学教育学部附属中学校、岡山操山高校、東京大学法学部卒業。

大学在学中に司法試験に合]。司法修習修了後、検事任官。その後、法務省東京地検鳥取地検横浜地検盛岡地検東京地検特捜部に勤務。外交官として、在ワシントン大使館で一等書記官・法律顧問を務める。大使館在任中、日本政府や日本企業を相手取ってアメリカの裁判所で提起された従軍慰安婦訴訟や戦時捕虜訴訟を担当。複雑な訴訟の経過を全て追い、アメリカ合衆国司法省と情報を交換し、作戦を立てる中心的役割を果たす。いずれも勝訴。日米刑事共助条約締結を担当。

2010年12月31日に、法務省刑事局国際課国際刑事企画官を最後に退官。

2010年12月、自民党公募に応募し、2011年1月、自民党岡山県第二選挙区支部長に就任。2012年(平成24年)の第46回衆議院議員総選挙で岡山2区より自由民主党公認で立候補。民主党前職の元内閣府大臣政務官津村啓介を破り、初当選した。2014年(平成26年)の第47回衆議院議員総選挙で再選。

 首相は自身に近い政治信条を持つ山下氏に目をつけたようだ。首相は第4次安倍改造内閣の発足を受けた2日の記者会見で「総裁選で誰に投票したか、全く考える余地はなかった」と述べ、人物本位で選んだことを強調した。

 もっとも山下氏は、小泉進次郎元筆頭副幹事長の腹心として知られる。今回の抜擢は首相が小泉氏の人脈に影響力を持とうとする狙いも見え隠れする。

柴山文部科学大臣は、2日の初閣議後の記者会見で、教育勅語についての見解を聞かれたのに対し、「現代風に解釈されたり、アレンジしたりした形で使える分野は十分あり、普遍性を持っている部分が見て取れるのではないか。同胞を大切にするとか、国際的な協調を重んじるとかいった基本的な内容を現代的にアレンジして教えていこうという動きもあると聞くが、検討に値するのかなと考えている」と述べました。

教育勅語」は、明治23年に発布され、国民が守るべき道徳として戦前、戦中の学校で朗読されていました。天皇が国民に語りかけるという形式で、家族を大切にすることなどを説き、そのうえで、「危急の大事が起こったならば、大儀に基づいて勇気をふるい一身をささげて皇室国家のために尽くすよう」求めていました。戦後はこうした教えが「国家主義軍国主義に拍車をかけた」と指摘され、昭和23年に衆参両院がそれぞれ教育勅語の排除や失効を確認する決議を行いました。

教育勅語をめぐっては、去年3月、政府が「憲法教育基本法などに反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」と閣議決定したことに対して、野党や専門家などから「戦前回帰だ」などと批判が出ていました。

沖縄県知事選挙の結果です。

玉城デニー(無所属・新)当選、39万6632票
▽佐喜真淳(無所属・新)31万6458票
▽兼島俊(無所属・新)3638票
▽渡口初美(無所属・新)3482票

野党が支援した前衆議院議員の玉城氏が、自民・公明両党などが推薦した前宜野湾市長の佐喜真氏らを破り、初めての当選を果たしました。

玉城氏は沖縄県出身の58歳。タレントとして活動したあと、平成21年の衆議院選挙で初当選し、自由党の幹事長を務めています。

玉城氏は、8月に死去した翁長知事の遺志を受け継ぐとして、政府が進めるアメリカ軍普天間基地の名護市辺野古への移設阻止を訴え、知事を支持してきた共産党社民党などの支持層を固めたほか、いわゆる無党派層の支持も集め、初めての当選を果たしました。

玉城氏は「翁長知事の礎を継承し、発展させていく。埋め立て承認の撤回を支持し、名護市辺野古への移設反対をぶれずにやっていく」と述べました。

対する佐喜真氏は、地域経済の振興などを訴え、自民・公明両党の全面的な支援を受けましたが、及びませんでした。

一方、宜野湾市市長選挙も30日に投票が行われ、自民・公明両党などが推薦した前副市長の松川正則氏(65)が初めての当選を果たしました。

玉城氏は「本当に身の引き締まる思いでいっぱいです。翁長知事の礎を継承し、発展させていくことを約束したい。埋め立て承認の撤回を支持し、名護市辺野古への移設反対をぶれずにやっていく。対立や分断を持ち込んでいるわけではなく、経済については国としっかり協議をしたいが、県民が認められないものはしっかり政府に突きつけていく」と話していました。

共産党の志位委員長は「辺野古に新基地はつくらせない、普天間基地は即時閉鎖・撤去をという県民の確固たる意思を示したもので、翁長知事の遺志を引き継ぎ、県民が勝ち取った歴史的勝利だ。安倍政権は、沖縄に対する強権政治をきっぱりやめ、県民の意思を重く受け止め、名護市辺野古の新基地建設を直ちに中止すべきだ」という談話を発表しました。

自由党の小沢代表は「翁長前知事の心をしっかりと受け継ぎ、沖縄のあるべき姿や未来について、具体的に情熱的に訴えかけてきた姿勢が理解された。辺野古移設問題は、はっきりとした民意が示された。国は重く受け止めて反省し、沖縄に重荷を押しつけることのないよう、解決に力を尽くすべきだ」という談話を発表しました。

玉城氏の当選を受けて、アメリ国務省は「玉城氏の当選に祝意を伝えるとともに、今後、一緒に仕事をしていくことを楽しみにしている」というコメントを発表しました。

この中で、国務省は「アメリカ政府は、日米同盟と2国間の安全保障に対する沖縄の貢献を非常に重んじている」と沖縄の重要性を強調しています。

一方で、玉城氏が反対する立場を鮮明にした普天間基地の移設問題については言及しておらず、日米両政府で合意した名護市の辺野古沖に移設する計画を維持していく方針です。

 天皇が「深い悲しみを新たにいたします」と述べた平成最後の終戦記念日靖国神社(東京・九段北)には安倍晋三首相はじめ現役閣僚の姿はなく、中国や韓国も一頃ほど神経をとがらせなくなった。しかし、その落ち着きの裏で、靖国神社は“爆弾”を抱えていた。

 6月20日靖国神社社務所会議室で行なわれた「第1回教学研究委員会定例会議」で、その重大事は起きた。今年3月に第十二代靖国神社宮司に就任した小堀邦夫氏(68)が、創立150年に向けて新たに組織したのが「教学研究委員会」だった。これからの靖国神社がどうあるべきかを考えるとして、第1回の会議には、小堀宮司以下、ナンバー2である権宮司など職員10人が出席したことが当日の議事録に残されている。

 その会議の場で、靖国神社のトップである小堀宮司から、驚くべき発言が飛び出した。

「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う? そういうことを真剣に議論し、結論をもち、発表をすることが重要やと言ってるの。はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」

 さらに発言は、代替わりで次の天皇となる皇太子夫妻にも向けられた。

「あと半年すればわかるよ。もし、御在位中に一度も親拝(天皇が参拝すること)なさらなかったら、今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」

皇室ジャーナリストの久能靖氏はこう言う。

今上天皇靖国を参拝されない理由はわかりません。が、あえて推察すれば、昭和天皇が1978年のA級戦犯合祀以来、靖国においでにならなくなった、その思いを咀嚼されたのではないかと考えられます。今上陛下は戦争体験をお持ちで、戦中の国民の苦しみは直接ご存じでした。だからこそ、国内外にわたるすべての戦地で慰霊を行ないたいというお気持ちになられていたと思います。天皇陛下の慰霊の旅は、強い信念に基づいて行なわれているものでしょう」

 その慰霊の旅が、小堀宮司の目には靖国神社を否定する行為に映っていると、靖国神社関係者が言う。

「小堀宮司からすれば、英霊の御霊は靖国にこそあり、戦地にはない。にもかかわらず、今上天皇靖国よりも慰霊の旅を選んでいるとなると、靖国の存在意義を否定することになってしまうという思いがあったのではないか」

 しかし、この発言は靖国神社内でも問題視された。

「勅祭社(天皇が例祭などに勅使を派遣し、奉幣を行なう神社)としての靖国神社の性格を考えると、天皇陛下を批判するような発言は、宮司として問題ではないかという声が上がっています」(同前)

「平成の御代のうちに天皇陛下にご参拝をいただくことは、私たち靖国神社からすると悲願なのです。小堀宮司は、“平成の御代に一度も御親拝がなかったらこの神社はどうするんだ”と口にしていました。そうして宮内庁に対し、宮司自らが伺って御親拝の御請願を行なうための交渉を内々にしているのですが、まだ実現の目処は立っていない」

 小堀宮司は専門紙「神社新報」で、〈(創立)五十年目に大正天皇行幸され、百年目には昭和天皇が皇后とお揃ひで行幸されてゐます。そして来年、百五十年といふ大きな節目の年がやってくることの重大さは、御代替りと相俟って深刻に考へてゐます〉(7月30日付)と語っていた。

 この日の会議は、靖国の創立百五十年史略年表の作成・出版などについて話した後に「戦犯に対する誤解や東京裁判の不当さについて調査考証する」という議題に入った。そこで出席者の職員が「富田メモ」について言及したことが、小堀発言に繋がった。

 富田メモとは、富田朝彦宮内庁長官(在任は1978~1988年)が昭和天皇の非公開発言を記したメモで、靖国A級戦犯が合祀されたことに関し、「だから、私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」との記述があった。2006年に日経新聞がメモの存在をスクープすると、「昭和天皇の真意が分かる超一級史料」と評価される一方、「陛下の真意とは限らない」と否定的意見も上がり、真贋をめぐる大論争となった。それに伴い、A級戦犯靖国神社への合祀の是非や、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝議論も過熱した。

 靖国神社はこの富田メモについて、現在に至るまで一切コメントしていない。だが、実際は“深い棘”として刺さっていたようだ。

 この富田メモについて、職員が、「もしそれが本当の昭和天皇の発言だったらどうするんだ、ということで私は真剣に考えましてですね」と言い出し、合祀の経緯を振り返った上で、こう熱弁を振るった。

「このまま時代を50年、100年経過していったときにどういうふうな説明をして、国民が理解していけるのか、というところの先読みしたような考え方を持っていく必要があるんじゃないか」

 ところがこの職員の発言を、小堀宮司はいきなり遮り、切って捨てた。

「お前の説教、聞きたくないよ。しょうもない。お前のどこに戦略があんねん。『これ知ってます、私はこれ知ってます』っていう話ばっかりやないか。どうやって戦うかを考えるんがこの仕事やないか。何も恐れる必要はない。間違ってたら間違ってたと言えばいい。

(中略)戦略を考えるのは俺が考える。君らが考えんでいい。一番大きな問題はあの慰霊の旅です。気がつかないのか君たちは」

富田メモについては靖国神社の中でも“タブー扱い”されてきた。昭和天皇今上天皇の御親拝が途絶えている真意についても触れないできたわけです。

 小堀宮司は、そうした空気の中で、トップとしての風格を見せる狙いもあってああした物言いをしたのではないか。『戦う』『戦略』といった言葉からは、どんな事情が背景にあるにせよ、とにかく天皇の御親拝を実現させたいという強い意思を感じます。しかし、それが実現しないことの不満となれば、天皇陛下への批判となってしまう。靖国神社が抱えるジレンマが、ついに噴出してしまったということでしょう」(前出・靖国神社関係者)

 小堀宮司は、3つの大学、大学院を出たあと伊勢神宮に奉職。以来、伊勢神宮一筋で、宮司を補佐する禰宜(ねぎ)という要職に登り詰めた。

 靖国の前宮司・徳川康久氏が、戊辰戦争の“賊軍”である幕府軍会津軍の戦死者も合祀に前向きな姿勢を示したことなどが問題視され、「一身上の都合」で辞任したのを受けて、靖国宮司に就任した。

 伊勢神宮時代には、メディアにも何度か登場している。2016年に天皇生前退位の「お気持ち」を表明された際には、中日新聞(2016年8月9日付)の取材に、〈苦心されてお言葉を選ばれたのだろう。天皇陛下が『伝統の継承者』であり続けるため、現行制度の問題を問い掛けているのでは〉と賛同する姿勢で答えていた。

 ところが、教学研究委員会では、まったく別の意見を述べている。

「あのビデオメッセージで譲位を決めたとき、反対する人おったよね(中略)正論なんよ。だけど正論を潰せるだけの準備を陛下はずっとなさってる。それに誰も気がつかなかった。公務というのはそれなんです。実績を陛下は積み上げた。誰も文句を言えない。そしてこの次は、皇太子さまはそれに輪をかけてきますよ。どういうふうになるのか僕も予測できない。少なくとも温かくなることはない。靖国さんに対して」

 本誌は一連の発言の真意を確認するため、9月26日早朝、小堀宮司の自宅前で本人を直撃した。

──6月20日の教学研究委員会で話されたことについてお聞きしたい。
「何も知らないですよ」

──いや、小堀さんが話されたことですよ。
「教学研究委員会、僕、出てませんよ」

──教学研究委員会ですよ。
「ええ、出てませんよ」

 そう質問を遮って、迎えの車に乗り込んだ。

 靖国神社に会議での発言について見解を求めた。

「教学研究委員会は、社外公開を前提としたものではございませんので、各委員の発言を含め会議内容などの回答は控えさせていただきます。また当委員会では、世代交代が進む御遺族・崇敬者のみならず、多くの人々に当神社をご理解いただくべく、神社運営や教学について研究・協議を始めたばかりです。その過程において、協議内容の一部分を抽出し、神社の見解とすることはございません」(広報課)