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#35 水の国・熊本  “火の国”熊本は“水の国”? | タモリのブラブラ足跡マップ | ブラタモリ - NHK


水前寺成趣園 - Wikipedia

通称は水前寺公園。豊富な阿蘇伏流水が湧出して作った池を中心にした桃山式回遊庭園で、築山や浮石、芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模したといわれる。

「わくわく都市くまもと」熊本シティブランド公式サイト

日本最大級の自噴井戸 『健軍5号井』 です。

場所:健軍水源地内(熊本市東区水源1丁目1番1号)

健軍水源地 | 熊本市上下水道局
下通 - Wikipedia

熊本県最大の繁華街。

鼻ぐり井手 - Wikipedia

特別な構造の用水路で、この構造により、阿蘇方面から流れてくる土砂が堆積することなく水を通す仕掛けである。加藤清正が造らせた。

しかし、この仕掛けを知らない役人がきて、80のはなぐりのうち52を打ち壊してししまった。しかし、残りが28あって、土砂は今でもとどまらないという。

白川 (熊本県) - Wikipedia

最初に大規模な河川改修を行ったのは加藤清正であることがわかる。

熊本水物語の伝承 - 奇跡の地下水物語 / くまもとウォーターライフ

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160402#1459593876
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160331#1459420811
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160326#1458989811

皇居の「乾通り」の一般公開は、おととし以来、サクラとモミジの時期に行われていて、この春は期間を1週間に拡大して、先月25日から始まりましたが、サクラの開花が遅れたためさらに延長され、3日までの10日間実施されました。
宮内庁によりますと、先月30日には8万3000人近くが訪れるなど、期間中の参加者は、合わせて50万8000人余りに上ったということです。また、「乾通り」とつながる皇居の「東御苑」も大勢の人たちでにぎわい、皇室ゆかりの美術品を所蔵する「三の丸尚蔵館」は、期間中2度にわたって、1日当たりの来館者数の記録を更新したということです。
乾通りの一般公開は、ことしのモミジの時期と来年のサクラの時期は、樹木の植え替え工事のため行われないことになっていて、次回は、来年のモミジの時期に実施されます。

江戸期、公家の参内が観光の目玉に 京都御苑、専門家と歩く : 京都新聞

 幕末の地図「掌中雲上抜錦(しょうちゅううんじょうばっきん)」を見ると江戸時代の御所の様子が分かる。御苑は200もの公家屋敷が並ぶ公家町だった。外郭の通り沿いに今の石塁はなく、公家町は京都の町に続いていた。町人や旅人は自由に九門内に入り、公家町の道沿いにある屋敷の築地塀が美観をつくっていた。


 「外側を囲って威厳を持たせるのでなく、人が歩く場をきれいに整備する発想でした」


 公卿門の近くに茶屋があったという。江戸時代には「檜垣(ひがき)茶屋」が立ち、明治時代まで続いた。町民らは茶屋で酒肴(しゅこう)を味わい、参内する公家の異形の行装を楽しんだ。金を払えば御所で天皇即位式や行事も見物できた。江戸前期の明正天皇即位式の屏風(びょうぶ)は、酒を酌み交わす人々や、おおらかに胸をはだけて授乳する女性が描かれている。

 1869年の東京遷都で公家が東京に移住後、公家町跡に「公園」として整備されたのが御苑だ。遷都後の十数年は府が御苑を管轄した。石油灯がともり、画学校や博物館が置かれるなど、御苑は円山公園と並ぶ文明開化の地だった。

御苑が今の姿になるきっかけは明治天皇の京都行幸(1877年)。天皇は御所保存の御沙汰を下し、外郭に石塁が積まれた。6年後、御所は宮内省管轄になり、御所の位置づけは府管轄時代の「公園」から、天皇即位式大嘗祭(だいじょうさい)を行う「大礼の場」に転換する。大正天皇即位式「大正大礼」(1915年)のために建礼門前の通りを拡幅、ウメ、モミなど2千本以上を植栽し、鴨川で採取した砂利を敷きつめ、今の“荘厳な”景観が完成したという。


 「日露戦争後の帝国日本を象徴する儀式が大正大礼。欧米の一等国に肩を並べるために、欧米やアジア諸国とは異なる日本らしさと京都らしさを発信する都市として古都を新たに位置づける国家構想の下、御所はナショナルなイメージに重ねられていきました」

2日から奈良県を訪れている天皇皇后両陛下は、午前10時すぎ、橿原市にある神武天皇陵に到着されました。神武天皇は、日本書紀などに登場する初代の天皇で、3日で崩御から2600年になるとされます。
式年祭には秋篠宮ご夫妻も付き従われ、初めに天皇陛下秋篠宮さまが、宮内庁の幹部の先導で鳥居をくぐり、砂利道をゆっくりと歩いて木立に囲まれた天皇陵の前に進まれました。そして、天皇陛下が玉串を供えて拝礼され、秋篠宮さまもこれに合わせて拝礼されました。
続いて、天皇陛下がお気持ちを表す「御告文」を読み上げられました。このあと、皇后さまと紀子さまも同じように拝礼されました。
両陛下は、午後には、神武天皇をまつる橿原神宮を参拝されることになっています。
一方、皇居でも、天皇陛下の名代の皇太子さまなど皇族方が、歴代の天皇や皇族の霊がまつられている「皇霊殿」で儀式に臨まれ、雅子さまも古式ゆかしい装束に着替えて7年ぶりに宮中祭祀に参列されたということです。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160331#1459420826

作家の目取真俊氏は、1日、アメリカ軍普天間基地の移設計画への抗議活動中に、名護市辺野古アメリカ軍基地周辺の立ち入り禁止区域に許可なく入ったとして、アメリカ軍に拘束されたあと、海上保安部に引き渡され、日米地位協定に伴う「刑事特別法」違反の疑いで逮捕されました。
目取真氏は2日午後、送検され、那覇地方検察庁は午後7時すぎ、処分保留のまま釈放しました。釈放後、目取真氏は、「現地の作業員に、早く立ち去ってほしいと要請しに行くため通過しただけで、基地への侵入や妨害行動の意図は全くなかった」と話しました。
目取真氏は沖縄県出身で、平成9年、沖縄戦をテーマにした小説、「水滴」で芥川賞を受賞し、その後も基地問題など沖縄に関する著作を数多く手がけていて、これまでにも普天間基地辺野古への移設計画に抗議する活動を行っていました。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160402#1459593886

海自の練習潜水艦 15年ぶりにフィリピン寄港 | NHKニュース

フィリピンに寄港したのは、海上自衛隊呉基地所属の練習潜水艦「おやしお」で、3日午前、2隻の護衛艦とともに南シナ海に面するルソン島のスービック地区にある港に到着しました。日本の潜水艦がフィリピンに寄港するのは15年ぶりで、港ではフィリピン海軍の音楽隊が歓迎の演奏を行って到着した自衛官たちを迎えました。
「おやしお」は全長80メートル余りの潜水艦で、平成10年に就航し、現在は、新しいタイプの潜水艦の導入に伴い練習用として使われています。今回の寄港は、若手の幹部自衛官による練習航海の一環ですが、南シナ海の領有権を巡って、中国と対立するフィリピンに潜水艦を派遣することでフィリピン軍と自衛隊の関係強化を進め、この海域で海洋進出の動きを強める中国をけん制するねらいもあるとみられます。
海上自衛隊潜水艦隊の吉野宏昭1佐は、「日本の周辺国による潜水艦の活動が活発化しその対応が課題となっており、フィリピンは地理的にもよりリアルな訓練を行うことができる」と話していました。
中谷防衛大臣は、高知市内で記者団に対し「南シナ海では航行の自由やシーレーン海上交通路の確保は重要であり、フィリピンとは、共同訓練など地域の安定に資する活動に積極的に取り組んできた。今後も2国間や多国間での共同訓練などを行い、連携を進めていきたい」と述べました。

フィリピンのスービック湾に寄港したのは、海上自衛隊護衛艦「ありあけ」と護衛艦「せとぎり」、それに練習潜水艦「おやしお」の3隻です。
このうち2隻の護衛艦は、哨戒機とヘリコプターの機長を目指す55人の飛行幹部候補生を乗せ、先月19日、学校がある広島県江田島を出港し、その後、「おやしお」と合流しました。今回の練習航海は、機長になる前に、艦艇での勤務や任務を学ばせるためのもので、洋上での訓練を交えながらフィリピンを目指しました。
護衛艦2隻はこのあと潜水艦と分かれてベトナムに向かい、日本の護衛艦として初めてカムラン湾に寄港する予定です。
一連の寄港について海上自衛隊は、幹部自衛官の教育とともに、フィリピンやベトナムとの親善も兼ねているとしています。
フィリピンやベトナムは、南シナ海の領有権を巡り、中国と対立しています。
海上自衛隊トップの武居智久海上幕僚長は、先月15日の定例の会見で、「特定の目的でこの地域を選んだということではないが、西太平洋地域の安全保障にとって、海上自衛隊と、フィリピンやベトナムなど各国の海軍との関係強化は必要だと認識している」と述べています。

ベトナムの国営メディアによりますと、北部のトンキン湾で先月31日、国境警備当局がベトナムの領海内で中国船1隻を発見し拿捕したということです。船に乗っていた中国人乗組員3人は北部のハイフォンに連行されて取り調べを受けていますが、これまでの調べに対し、船長はベトナムの領海を侵犯したことを認めているということです。
この船には10万リットル以上の燃料が積み込まれていて、船長はベトナムの領海内で違法に操業する中国漁船に燃料を供給する目的だったと話しているということです。
ベトナムと中国は南シナ海の島々の領有権を巡って対立し、ベトナム漁船が中国当局の船に追い回される事件などが相次いでいますが、ベトナム当局が中国の船を取り締まることは近年ではあまり例がなく、今後、中国が反発することも予想されます。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160317#1458211778

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鳥居元忠 - Wikipedia

天正13年(1585年)、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、大久保忠世平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退される。

戸石城 - Wikipedia

東太郎山の尾根上に築かれ、南の上田平や北東の真田郷を一望できる位置にあり、南東には北佐久を望むことも出来る。西側には神川が南西へ流れ、千曲川と合流。

山城 - Wikipedia

城は、防御に有利な地形に築くことが望ましく、険しい山はその条件を満たすが、住むには不便であり、守るべき対象である人の居住地から離れている。したがって、山城は防御専用として造られることが多かった。城主は、平時には麓に住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようである。

上田合戦 - Wikipedia

第一次上田合戦

この戦いに限り、神川合戦、上田・神川の合戦とも呼ばれる。

天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠大久保忠世平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。


徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。


閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。


翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。

堀田興重 - Wikipedia

通称は作兵衛。