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宮脇咲良(HKT48/AKB48)のトーク | 755

11月のアンクレット一位に感極まって、涙堪えるのに必死でした。本当に、一位になって良かった。まゆゆさん、本当に本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。

#珍獣

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716446

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171229#1514543930


厚生労働省は、毎年1月から10月までの数値をもとに、その年に結婚したカップルなどを推計しています。


それによりますと、去年1年間に結婚したカップルは、全国の推計で60万7000組となり、前の年より1万3000組余り少なくなる見通しです。結婚の数が減少するのは5年連続で、戦後、最も少ない数となり、厚生労働省は若い世代の人口減少が大きな要因と見ています。


一方、去年1年間に離婚した夫婦は、21万2000組と推計され、前の年よりおよそ4800組少なくなる見通しです。ここ20年では最も少ない数となり、結婚の数が減っていることで、離婚も減少傾向にあると見られています。


単純に計算すると全国で52秒に1組が結婚し、2分29秒に1組が離婚していることになります。


厚生労働省は「少子化に歯止めをかけるには、結婚しやすい環境を整えていく必要があるため、若い世代の就労支援などに力を入れていきたい」としています。

外宮前から内宮前の検索 発着時刻表

大人:430円  小児:220円

運賃・乗車券 - 路線バス|三重交通ホームページ

三重交通で使えるその他のICカードについて | 三重交通ICカードシステム エミカ

emica対応エリアでは、下記の交通系ICカードもご利用いただけます。

あらかじめ各ICカード対応駅、コンビニエンスストア等でチャージしてご利用ください。
三重交通グループではチャージできません。

伊勢神宮・内宮から伊勢神宮・外宮までのタクシー料金 - NAVITIME

伊勢神宮・外宮から内宮へのアクセス(行き方 )「徒歩・三重交通バス・タクシー・レンタサイクル」 | 伊勢神宮(内宮・外宮)の御朱印・アクセス(行き方)・観光・見学所要時間・駐車場・混雑・渋滞状況

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716460


東京・港区にある高さ333メートルの東京タワーは、昭和33年の12月にオープンしてからことしで60周年の節目を迎えます。現在も東京スカイツリーについで国内で2番目に高い建造物で、来場者は、これまでに1億8000万人近くに上っています。


節目を前に、高さ250メートルの特別展望台やその下の大展望台などで、施設の魅力を高め利便性を向上させようと、開業以来最も大規模なリニューアルに向けて、工事が進められています。管理運営会社の「日本電波塔」によりますと、このうち特別展望台は、現在営業を休止していますが、ことし3月ごろには、工事が終わる計画です。


会社側は、特別展望台のリニューアルオープンを機に、外国人観光客をさらに呼び込む取り組みも進めたいとしています。


大展望台も含めた全体のリニューアルは、順調に進めば2020年の前半に終わる見込みで、東京オリンピックパラリンピックの開催時には、新しい東京タワーが観光客を迎えることになります。

月組公演 『アーサー王伝説』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

未来へ - 宝塚歌劇団 - 歌詞 : 歌ネット

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ユニクロ|ニット(セーター・カーディガン)|WOMEN(レディース)|公式オンラインストア(通販サイト)

ユニクロ|ニット(セーター・カーディガン)|MEN(メンズ)|公式オンラインストア(通販サイト)


さまざまな職種において、雇用した従業員30,000人を調査したところ、その履歴書の応募するブラウザの種類によって、パフォーマンスが異なる。とあるブラウザを使っているグループは、その他のグループと比べて、雇用後のパフォーマンスがどの評価基準で見てもすぐれていた!!

ChromeFirefoxからの応募者 >>>> IESafariからの応募者

なぜなら、ChromeFirefoxを使うユーザは、与えられたことをこなすだけではなく、自ら情報を収集して工夫する習慣を持っていたのです。常に今あるものをそのまま使うのではなく、自ら行動起こして、より良い選択肢がないかを探し求める昼間がありました。


自発的にブラウザを変更する人は、仕事に対しても不満があった場合には自発的に環境改善していく一方、標準のブラウザを使う人、これが3分の2位ですが、その人たちはありものを受け入れるが故に、パフォーマンスも低く、不満が高まっていたのです。


これは、久々に衝撃のデータでした。常にありものを受け入れるのではなく、既存のシステムをどのように自分が考えていくかと言う選択肢を探し続け、新しいことをしていく習慣が、パフォーマンスにつながるわけです。

スノッブ - Wikipedia

スノッブ(snob)は、一般に俗物、またスノビズム(snobbism)は俗物根性と訳される。


多くの場合「知識・教養をひけらかす見栄張りの気取り屋」「上位の者に取り入り、下の者を見下す嫌味な人物」「紳士気取りの俗物」といった意味で使われる。

#似非学問#ニセ科学#疑似科学

図書カード:科学者と芸術家

寺田寅彦

 芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念をいだいているかのように見える人もある。場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を連想する潔癖家さえまれにはあるように思われる。
 科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。
 夏目漱石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。

 世間には科学者に一種の美的享楽がある事を知らぬ人が多いようである。しかし科学者には科学者以外の味わう事のできぬような美的生活がある事は事実である。たとえば古来の数学者が建設した幾多の数理的の系統はその整合の美においておそらくあらゆる人間の製作物中の最も壮麗なものであろう。物理化学の諸般の方則はもちろん、生物現象中に発見される調和的普遍的の事実にも、単に理性の満足以外に吾人の美感を刺激する事は少なくない。ニュートンが一見捕捉しがたいような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知った時には、実際ヴォルテーアの謳ったように、神の声と共に渾沌は消え、闇の中に隠れた自然の奥底はその帷帳を開かれて、玲瓏たる天界が目前に現われたようなものであったろう。フォークトはその結晶物理学の冒頭において結晶の整調の美を管弦楽にたとえているが、また最近にラウエやブラグの研究によって始めて明らかになった結晶体分子構造のごときものに対しても、多くの人は一種の「美」に酔わされぬわけに行かぬ事と思う。この種の美感は、たとえば壮麗な建築や崇重な音楽から生ずるものと根本的にかなり似通ったところがあるように思われる。


 また一方において芸術家は、科学者に必要なと同程度、もしくはそれ以上の観察力や分析的の頭脳をもっていなければなるまいと思う。この事はあるいは多くの芸術家自身には自覚していない事かもしれないが、事実はそうでなければなるまい。いかなる空想的夢幻的の製作でも、その基底は鋭利な観察によって複雑な事象をその要素に分析する心の作用がなければなるまい。もしそうでなければ一木一草を描き、一事一物を記述するという事は不可能な事である。そしてその観察と分析とその結果の表現のしかたによってその作品の芸術としての価値が定まるのではあるまいか。
 ある人は科学をもって現実に即したものと考え、芸術の大部分は想像あるいは理想に関したものと考えるかもしれないが、この区別はあまり明白なものではない。広い意味における仮説なしには科学は成立し得ないと同様に、厳密な意味で現実を離れた想像は不可能であろう。科学者の組み立てた科学的系統は畢竟するに人間の頭脳の中に築き上げ造り出した建築物製作品であって、現実その物でない事は哲学者をまたずとも明白な事である。また一方において芸術家の製作物はいかに空想的のものでもある意味において皆現実の表現であって天然の方則の記述でなければならぬ。俗に絵そら事という言葉があるが、立派な科学の中にも厳密に詮索すれば絵そら事は数えきれぬほどある。科学の理論に用いらるる方便仮説が現実と精密に一致しなくてもさしつかえがないならば、いわゆる絵そら事も少しも虚偽ではない。分子の集団から成る物体を連続体と考えてこれに微分方程式を応用するのが不思議でなければ、色の斑点を羅列して物象を表わす事も少しも不都合ではない。


 もう少し進んで科学は客観的、芸術は主観的のものであると言う人もあろう。しかしこれもそう簡単な言葉で区別のできるわけではない。万人に普遍であるという意味での客観性という事は必ずしも科学の全部には通用しない。科学が進歩するにつれてその取り扱う各種の概念はだんだんに吾人の五官と遠ざかって来る。従って普通人間の客観とは次第に縁の遠いものになり、言わば科学者という特殊な人間の主観になって来るような傾向がある。近代理論物理学の傾向がプランクなどの言うごとく次第に「人間本位の要素」の除去にあるとすればその結果は一面において大いに客観的であると同時にまた一面においては大いに主観的なものとも言えない事はない。芸術界におけるキュービズムやフツリズムが直接五官の印象を離れた概念の表現を試みているのとかなり類したところがないでもない。


 次に、自然科学においてはその対象とする事物の「価値」は問題とならぬが、その研究の結果や方法の学術的価値にはおのずから他に標準がある。芸術のための芸術ではその取り扱う物の価値よりその作物の芸術的価値が問題になる。そうして後者の価値という事がむつかしい問題であると同様に前者の価値という事も厳密には定め難いものである。


 科学の方則や事実の表現はこれを言い表わす国語や方程式の形のいかんを問わぬ。しかし芸術は事物その物よりはこれを表現する方法にあるとも言わば言われぬ事はあるまい。しかしこれもそう簡単ではない。なるほど科学の方則を日本語で訳しても英語で現わしても、それは問題にならぬが、しかし方則自身が自然現象の一種の言い表わし方であって事実その物ではない。ただ言い表わすべき事がらが比較的簡単であるために、表わし方が多様でないばかりで必ずしもただ一つではない。芸術の表現しようとするは、写してある事物自身ではなくてそれによって表わさるべき「ある物」であろう、ただそのある物を表わすべき手段が一様でない、国語が一定しない。しかししいて言えば、一つの芸術品はある言葉で表わした一つの「事実」の表現であるとも言われぬ事はない。
 しからば植物学者の描いた草木の写生図や、地理学者の描いた風景のスケッチは芸術品と言われうるかというに、それはもちろん違ったものである。なぜとならば事実の表現は必ずしも芸術ではない。絵を描く人の表わそうとする対象が違うからである。科学者の描写は草木山河に関したある事実の一部分であるが、芸術家の描こうとするものはもっと複雑な「ある物」の一面であって草木山河はこれを表わす言葉である。しかしそのある物は作家だけの主観に存するものでなくてある程度までは他人にも普遍的に存する物でなければ、鑑賞の目的物としてのいわゆる芸術は成立せず、従ってこれの批評などという事も無意味なものとなるに相違ない。このある物をしいて言語や文学で表わそうとしても無理な事であろうと思うが、自分はただひそかにこの「ある物」が科学者のいわゆる「事実」と称し「方則」と称するものと相去る事遠からぬものであろうと信じている。


 しかしこのような問題に深入りするのはこの編の目的ではない。ただもう少し科学者と芸術家のコンジェニアルな方面を列挙してみたいと思う。


 観察力が科学者芸術家に必要な事はもちろんであるが、これと同じように想像力も両者に必要なものである。世には往々科学を誤解してただ論理と解析とで固め上げたもののように考えている人もあるがこれは決してそうではない。論理と解析ではその前提においてすでに包含されている以外の何物をも得られない事は明らかである。総合という事がなければ多くの科学はおそらく一歩も進む事は困難であろう。一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見いだし、個々別々の事実を一つの系にまとめるような仕事には想像の力に待つ事ははなはだ多い。また科学者には直感が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する論理的の径路を組み立てたものである。純粋に解析的と考えられる数学の部門においてすら、実際の発展は偉大な数学者の直感に基づく事が多いと言われている。この直感は芸術家のいわゆるインスピレーションと類似のものであって、これに関する科学者の逸話なども少なくない。長い間考えていてどうしても解釈のつかなかった問題が、偶然の機会にほとんど電光のように一時にくまなくその究極を示顕する。その光で一度目標を認めた後には、ただそれがだれにでも認め得られるような論理的あるいは実験的の径路を開墾するまでである。もっとも中には直感的に認めた結果が誤謬である場合もしばしばあるが、とにかくこれらの場合における科学者の心の作用は芸術家が神来の感興を得た時のと共通な点が少なくないであろう。ある科学者はかくのごとき場合にあまりはなはだしく興奮してしばらく心の沈静するまでは筆を取る事さえできなかったという話である。アルキメーデスが裸体で風呂桶から飛び出したのも有名な話である。
 それで芸術家が神来的に得た感想を表わすために使用する色彩や筆触や和声や旋律や脚色や事件は言わば芸術家の論理解析のようなものであって、科学者の直感的に得た黙示を確立するための論理的解析はある意味において科学者の技巧とも見らるべきものであろう。
 もっともこのような直感的の傑作は科学者にとっては容易に期してできるものではない。それを得るまでは不断の忠実な努力が必要である。つとめて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。常人が見のがすような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考えがひらめいて来る事もあるであろう。
 科学者の中にはただ忠実な個々のスケッチを作るのみをもって科学者本来の務めと考え、すべての総合的思索を一概に投機的とし排斥する人もあるかもしれない。また反対に零細のスケッチを無価値として軽侮する人もあるかもしれないが、科学というものの本来の目的が知識の系統化あるいは思考の節約にあるとすれば、まずこれらのスケッチを集めこれを基として大きな製作をまとめ渾然たる系統を立てるのが理想であろう。これと全く同じ事が芸術についても言われるであろうと信ずる。
 ある哲学者の著書の中に、小説戯曲は倫理的の実験のようなものだという意味の事があった。実際たとえば理論物理学で常に使用さるるいわゆる思考実験と称するものはある意味において全く物理学的の小説である。かつて何人も実験せずまた将来も実現する事のありそうもない抽象的な条件の下に行なわるべき現象の推移を、既知の方則から推定し、それからさらに他の方則に到達するような筋道は、あるいは小説以上に架空的なものとも言われぬ事はない。ただ小説の場合には方則があまりに複雑であって演繹の結果が単義的でなく、答解が幾通りでもあるに反して、理学の場合にはそれがただ一つだという点に著しい区別がある。それはとにかくとして小説家が架空の人物を描き出してそれら相互の間に起こる事件の発展推移を脚色している時の心の作用と、科学者が物質とエネルギーを抽象して来てその間に起こるべき現象の径路を演繹している時のそれとはよほど似たものであるように思われる。少なくもこの種の科学者は小説家を捕えて虚言者とののしる権利はあるまい。小説戯曲によっては現実に遠い神秘的あるいは夢幻的なものもあるが、しかしこれが文学的作品として成立するためにはやはり読者の胸裏におのずから存在する一種の方則を無視しないものでなければならない。これを無視したものがあればそれはつまり瘋癲病院の文学であろう。


 芸術家科学者はその芸術科学に対する愛着のあまりに深い結果としてしばしば互いに共有な弱点を持っている。その一つはすなわち偏狭という事である。もちろんまれには卑しい物質的の利害から起こる事もないではあるまいが、それらは別問題として、科学者芸術家に多い病は、他を容いれる度量に乏しくて互いに苦々しく相排することである。これも両者の心理に共通なもののある事を示す一例と見なされる。畢竟偏狭※(「女+冒」、第4水準2-5-68)嫉は執着の半面であるとすれば、これは芸術と科学の愛がいかに人の心の奥底に深く食い入る性質のものであるかを示すかもしれない。ちょっと考えると、少なくも科学者のほうは、学問の性質上きわめて博愛的で公平なものでありそうなのに事実は必ずしもそうでないのは謎理的のようである。しかしよく考えてみると、科学者芸術家共に他の一面において本来一種の自己主義者たるべき素質を備えているべきもののようにも思われる。これは惜しむべきことであるかもしれないが、あるいはやみがたい自然の現象であるかもしれない。一面から見れば両者が往々この弱点を暴露してそれがために生ずる結果の利害を顧慮するいとまがないという事が少なくとも両者に共通な真剣な熱情を表明するのであるかもしれない。


 科学者と芸術家が別々の世界に働いていて、互いに無頓着であろうが、あるいは互いに相反目したとしたところが、それは別にたいした事でもないかもしれない。科学と芸術それぞれの発展に積極的な障害はあるまい。しかしこの二つの世界を離れた第三者の立場から見れば、この二つの階級は存外に近い肉親の間がらであるように思われて来るのである。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716446
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171222#1513939146
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図書カード:学位について

 こんな事件が起るよりずっと以前から「博士濫造」という言葉が流行していた。

 博士がえらいものであったのは何十年前の話である。弊衣破帽の学生さんが、学士の免状を貰った日に馬車が迎えに来た時代の灰色の昔の夢物語に過ぎない。そのお伽噺のような時代が今日までつづいているという錯覚がすべての間違いの舞台の旋転する軸となっている。社会の先覚者をもって任じているはずの新聞雑誌の編輯者達がどうして今日唯今でもまだ学位濫授を問題にし、売買事件などを重大問題であるかのごとく取扱うかがちょっと不思議に思われるのである。学位記というものは、云わば商売志願の若者が三年か五年の間ある商店で実務の習練を無事に勤め上げたという考査状と同等なものに過ぎない。学者の仕事は、それに終るのではなくて、実はそれから始まるのである。学位を取った日から勉強をやめてしまうような現金な学者が幾人かはあるとしても、それは大局の上から見ればそう重大な問題ではないであろう。少なくもその日まで勉強したことはまるで何もしなかったよりはやはりそれだけの貢献にはなっており、その日から止めたことは結局その人自身の損失に過ぎないであろう。
 学位授与恐怖病の流行によって最も損害を受けるものは、本当に独創的な研究によって学位を請求する人達であろう。独創的なものには玉もあるが疵も多い。疵を怖がる眼には疵ばかり見えて玉は見えにくい。審査者に十分の見識がないと、そういうものの価値の見当はつけにくいものである。そういうものは消極主義の審査官の安全第一という立場から云えば保留した方が無事である。西洋の学者がそれについて何とかいうのを待ってその鼻息を窺ってから決定した方がいい、ということになる恐れがある。ところが西洋では東洋人の独創などはよほどなものでないと見遁されやすい。不幸なのは独創性をもって生まれた研究者である。

図書カード:西鶴と科学

 第一に気の付く点は、西鶴が、知識の世界の広さ、可能性の限界の不可測ということについて、かなりはっきりした自覚をもっていたと思われることである。この点もまたある意味において科学的であると云われなくはない。
 科学者は実証なき何物をも肯定しないと同時に、不可能であると実証されない何物の可能性をも否定してはならないはずである。尤も科学者の中には往々そういう大事な根本義を忘れて、自分の既得の知識だけでは決して不可能を証明することの出来ない事柄を自分の浅はかな独断から否定してしまって、あとでとんだ恥をかくという例もあえて稀有ではない。

 科学者にも色々の型がある。馬琴型の立派な科学者も決して稀ではない。いわゆるアカデミックな学界の権威にはこの型が多い。しかしまた一方で西鶴型の優れた科学者も時に出現し、そうしてそういう学者の中に往々劃期的な大発見、破天荒の大理論を仕遂げる人が生まれるようである。科学全体としての飛躍的な進歩はただ後者によって成さるると云っても過言ではない。
 西鶴を生んだ日本に、西鶴型の科学者の出現を望むのは必ずしも空頼めでないはずであるが、ただそういう型の学者は時にアカデミーの咎めを受けて成敗される危険がないとも限らない。これも、いつの世にも変らない浮世の事実であろう。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716448

#似非学問#ニセ科学#疑似科学

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171226#1514284724

#経産省#ニセ科学

第269回 謹賀新年|塾長雑感

昨年11月21日全国5000人の市民が不当な賠償金4556万円を完済しました。東京、国立駅前から続く大学通りの景観をめぐり、国立市がマンション業者に支払った3124万円を国立市から求償された上原公子元国立市長が訴訟で敗訴し、利息を含めて4556万円を個人として国立市に負担することになりました。景観保護のためにマンション建設規制を求めて上原氏を支持したのは市民であり、その政策を実現したことによって、市長が個人責任を負担するなどという不当な裁判に納得できない全国の市民がカンパを寄せて、第三者弁済により全額支払ったのです。


複数の訴訟の経緯は建築差し止めなどを含み複雑ですが、市民からの支持を得て市長になり景観保護という政策を実現したがゆえに、市長が個人として責任を負うというのは、あまりにも理不尽です。国立市がマンション業者に支払った金額全額相当分がこの業者から国立市に寄付されているため、市に実損害はありません。それにも拘わらず、住民訴訟の形で市から市長に求償する訴訟が提起されたのです。1審は国立市の請求を棄却しましたが、控訴審で上原氏は敗訴、上告するも最高裁で実質的な審理もなされずに確定しました。

伊藤塾で学ぶ限りは勉強方法の不安は感じる必要はありません。実績が物語っているように塾の敷いた道を安心して1歩1歩進んでもらえばいいだけです。ときどき、塾のカリキュラムがこなぜずに他の勉強方法が魅力的に思えて、いろいろと手を出して失敗する方がいます。ですが、数年でまた気づいて戻ってきて合格します。その迷いの過程も結果的には本人に必要なことだったのかもしれませんが、少し残念です。


勉強方法の迷いや不安は不要ですが、結果に対する不安は、実は有益です。何度も言っているように、結果が保証されないことに向かってどれだけ努力を続けることができるかが、その人の実務家としての価値を決めます。どんな分野でも実務の世界は先が不透明で誰も予測できません。予測できない未来だからこそ、自分の未来は自分で創り上げる気概が求められるのです。志を実現する過程での成長こそが価値ある成果なのであって、目先の試験の合格・不合格、裁判での勝ち負けなどは些細なことなのです。そうした大局観をもって、自分の人生を見つめ、社会の動きにも関心を持ち続けてほしいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716444(「戦争国家」(Warfare state)から「福祉国家」(Welfare State)に)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716445(われわれはただ英雄が開いた小道をたどりさえすればいい。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716446
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716447
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716448
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171230#1514630340
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171214#1513247922(それだけI塾は圧倒的に強いっていうことですよね。)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716449

#勉強法


ことし9月に行われる見通しの自民党総裁選挙をめぐっては、党則の改正により、安倍総理大臣が3期目を目指して立候補することが可能になりました。仮に安倍総理大臣が3選を果たせば、来年11月には総理大臣として歴代最長の在任期間に達することになります。


安倍総理大臣は、元日に発表した年頭の所感で、2020年、さらにその先を見据えた改革を推進する考えを示し、総裁選挙での3選に意欲をにじませました。党内では、二階幹事長が、先週、訪問先の北京で安倍総理大臣の3選を支持する考えを重ねて示し、党内第2派閥を率いる麻生副総理兼財務大臣も安倍政権を支えるとしているほか、安倍総理大臣の出身派閥で党内最大の「細田派」も支持する見通しで、現時点では、優位に立っています。

#政界再編#二大政党制


北朝鮮の国営テレビは、日本時間の1日午前9時半から、ことしの国政運営の方針を示すキム・ジョンウン金正恩朝鮮労働党委員長の演説を放送し「去年、国家核武力完成の歴史的な偉業を成し遂げ、強力な戦争抑止力を保有した」と述べて、大陸間弾道ミサイルが完成したと重ねて主張しました。


そのうえで、「アメリカ本土が核攻撃の射程圏内にあり、核のボタンが私の事務室の机の上にいつも置かれている」と述べてトランプ政権を威嚇し、圧力には屈しないという姿勢を強調しました。


北朝鮮キム・ジョンウン金正恩朝鮮労働党委員長は1日、発表したことしの国政運営の方針を示す演説で、2月に韓国で開催されるピョンチャンオリンピックについて、「代表団の派遣を含めて必要な措置をとる用意があり、このため双方の当局がすぐに会うこともできる」と述べ、参加に前向きな姿勢を示しました。


中国の習近平国家主席は、12月31日夜、国営メディアを通じて、新年の祝辞を述べました。
この中で、習主席は、権力基盤を強化して2期目をスタートさせた共産党大会などに触れて去年を振り返ったうえで、ことしは、改革開放政策を打ち出して40年になる年だとして、「改革を徹底的に進める」と強調しました。


さらに、2020年までに農村の貧困人口をゼロにするという目標に改めて言及し、貧困対策に一層力を入れる考えを示しました。


そして、習主席は、外交について、「中国は、責任ある大国として、国連の権威と地位を堅く守り、国際的な義務と責任を積極的に果たす」と述べ、アメリカのトランプ政権が、自国第一主義を掲げるなか、中国が提唱する巨大経済圏構想「一帯一路」や、地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」を遵守していくことなどを通じて、国際的な影響力を拡大することに意欲を示しました。


就任してから今月20日で1年となるトランプ大統領は、公約の柱として掲げた医療保険制度、いわゆる「オバマケア」の撤廃やメキシコ国境沿いの壁の建設は、依然果たせていません。


一方で先月には法人税の大幅な減税を柱にした、税制改革を法律として成立させ、およそ30年ぶりとなる大規模な改革について、「歴史的な勝利だ」と成果を強調しました。


外交面では、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮に対し、日本など国際社会とともに経済制裁を強化し、圧力の最大化を図りながら核開発の放棄を迫っています。


一方で地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」から離脱したり、アメリカも深く関わったイランとの核合意を認めない立場に政策を変更したりし、国際社会から批判を浴びました。


さらに中東和平問題で焦点の聖地エルサレムの地位について、「イスラエルの首都と認める」と宣言し、当事者のパレスチナだけでなく、国際社会全体から反発を浴び、外交的な孤立を深めています。


こうした中、トランプ大統領にとってことしは、「国民からの審判」と言われる11月の中間選挙に勝利することが、その先の2020年の大統領選挙での再選を目指すうえで極めて重要になります。大統領としては、中間選挙に向けて成果を積み重ねたい考えで、雇用のさらなる改善を果たし、支持者にアピールしたい考えです。


ただ足元では、共和・民主の与野党の間で激しい対立が続き、今年度の政府予算がまとまらない状況が続いていることに加え、おととしの大統領選挙でのトランプ陣営とロシアとの関係をめぐるいわゆる「ロシア疑惑」についての捜査も続いています。
今後、捜査の手が、政権中枢にまで及ぶようなことがあれば、政権の屋台骨が激しく揺さぶられる事態も予想され、トランプ大統領にとって、ことし1年厳しい政権運営が続くことになりそうです。

イラン反政府デモ収まらず 一部で暴徒化、逮捕者も:朝日新聞デジタル

 政府の経済政策や物価高などに抗議してイラン各地で30日までに起きた反政府デモは同日夜になっても収まらず、最高指導者ハメネイ師への批判が始まるなど体制への抗議の色合いが濃くなってきている。地元メディアによると、テヘランでは一部の参加者が交通標識やガードレールを破壊したりゴミ箱に火をつけたりなどしており、逮捕者も3人出た。


 イランでは28日、北東部にある第2の都市マシュハドで日用品の価格高騰などに抗議するデモがあったのを皮切りに、30日までに抗議デモが各都市に波及。参加者は当初、「ロハニ大統領に死を」「シリアなどを支援するのでなく、国民を見ろ」などと、反政府のスローガンを叫んでいた。


 さらに怒りの矛先は、批判することがタブー視される最高指導者ハメネイ師にも向かい始めた。インターネット上には、各地のデモ隊が路上に飾られた同師の写真を引きはがす映像も投稿されている。


 デモはイラン各地で続いている模様だ。警察のほか、イスラム体制の護持を目的とするイランの精鋭部隊・革命防衛隊がデモの鎮圧に乗り出したとみられ、大規模な衝突も懸念される。西部ロレスタン州ではデモに参加した市民のうち少なくとも2人が治安当局との衝突の際に撃たれて死亡したとの情報もある。


 一連のデモは、ネットのSNSを通じて情報が拡散し全土に広がったとみられている。政府や宗教指導者はSNSへの批判を強めており、テヘラン市内では30日夜、一部の携帯電話などでネット通信が遮断されるなどした。


イランでは12月28日、物価の高騰や就職難に不満を募らせた市民が北東部のマシュハドで抗議行動を行ったのをきっかけに各地に反政府デモが広がり、一部で最高指導者のハメネイ師を頂点としたイスラム体制への異例の批判にも発展しています。


これまでに治安当局との衝突でデモの参加者2人が死亡し、300人以上が拘束されたと伝えられていますが、デモは31日も各地で続き、このうち首都テヘランの広場では若者らが不満の声を上げました。


この日、ロウハニ大統領は初めて抗議デモについて演説し、「国民が政府を批判し抗議するのは自由だ」と述べて一定の理解を示しつつも、暴力は容認しない姿勢を強調しました。


政府は警備を固めているほか、抗議行動の呼びかけなどが投稿されているインターネットの利用を一部で遮断し、締めつけを強化していて、異例の反政府デモが収束に向かうかどうか、注目されています。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171231#1514716454


ドイツでは、メルケル首相が、去年9月の議会選挙のあと行っていた2つの少数政党との連立交渉が決裂し、先月から、第2党の社会民主党との大連立政権を目指した協議を始めました。
こうした中、メルケル首相は、恒例のテレビ演説で、「世界は私たちを待ってはくれない。この国が10年、15年先も繁栄できるよう、速やかに条件を整えなければならない」と述べ、社会民主党との連立協議を急ぎ、4期目の政権をできるだけ早く発足させることに強い意欲を見せました。


ただ、メルケル首相率いる政党と、社会民主党とは、難民政策などで隔たりがあり、今後、両党がいかに歩み寄れるかが焦点となります。


また、メルケル首相は、演説で「ドイツの一体性について、これだけ多くの異なる意見が出されたことは長い間なかった。なかには、社会の分断について語る人さえいる」と述べ、好調な経済とは裏腹に社会の格差が拡大し、テロや難民問題などに不安を感じる人も少なくないという認識を示しました。


政権が発足しないまま新年を迎えることになったメルケル首相としては、国民の不安に寄り添う姿勢も示すことで、みずからが4期目を担うことに理解を求めたものと見られます。


ロシアの国営テレビは31日深夜、新年に向けた恒例のプーチン大統領のテレビ演説を放送しました。この中で、プーチン大統領は、「新年は、第一に家族の祝日だ。特別な温かい気持ちとともに重大な変化などを期待して迎えるものだ」と述べました。そのうえで、「生活の変化は必ず訪れる」と訴え、変化を強調しました。


ロシアでは、ことし3月に大統領選挙が行われますが、「ロシア科学アカデミー社会学研究所」が先月発表した調査によりますと、「国に変化が必要」と答えた人は若者を中心に51%に上り、3期目のプーチン政権では初めて「安定が必要」と答えた人を逆転しました。


支持率が80%を超えるプーチン大統領に対抗できる政治家は現時点ではいませんが、ソビエト崩壊後の社会の混乱を収拾し、安定をもたらしたことで支持されてきたプーチン大統領としては、変化を求める若者世代にもアピールする狙いがあるものと見られます。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171229#1514543944

アメリカ世界覇権の終焉を予見していたプーチン大統領: マスコミに載らない海外記事

“世界覇権への野望”は世界の安全保障にとって危険だと彼は非難した。“我々が目にしているのは、国際法の基本原則の更なる軽視だ”そして後でこうも述べた。“一つの国、もちろん何よりもアメリカ合州国は、あらゆる点で境界線を踏み越えている。”


ところが、プーチン大統領は、更に、一極支配というアメリカの傲慢さは、結局は、その覇権追求により、権力消滅に至るだろうと正確に予言した。


彼は言った。一極世界というのは“支配者一人、主権国一つという世界だ。最終的には、これは、この体制内部の全ての国々にとってのみならず、内部から自らを破壊するので、覇権国そのものにとっても有害だ。”

プーチン大統領は言った。“一極モデルは、受け入れられないのみならず、現代世界では不可能でもあると私は考える。”


不可能性、非許容は、全ての国が法の下で平等であることを否定する一方的行動の避けることのできない傾向に由来する。一極覇権を志望する国は、本質的に自らは法を超越するものだと考える。自身に対するそのような自己聖別観は専制政治と権力の乱用を招く。

“一方的で、往々にして違法な行動は、いかなる問題も解決していない。しかも、そうしたものは、新たな人類の悲劇を引き起こし、緊張の新たな中心を作り出している。ご自分で判断願いたい。戦争と局地的、地域的紛争は減っておらず… 以前にも増して益々多くの人々が亡くなっている。遥かに多く、遥かに多くだ!”

2018/1/1-1/7の空模様