https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com


48グループの関係者は「半同棲の事実はない」としている。

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中井りかがお騒がせをいたしまして、大変申し訳ございませんでした。支配人としてお詫び申し上げます。48グループの一員としての自覚を持って行動するよう、強く反省を促して参ります」

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英彦山神宮 - Wikipedia

日本三大修験の霊場として栄えた神社である。

英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に日田の猟師の藤原(藤山)恒雄(こうゆう、のちの忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。

アメノオシホミミ - Wikipedia

名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる。「オシホミミ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意である。 合気道開祖植芝盛平は正勝を「敵に屈せず、正しいことを行なって勝つ」、吾勝を「たゆまず修行し、己に勝つ」、勝速日を「相手と対峙した時にすでに勝っている」と解釈し、合気道の理念を表す用語とした。


稲穂の神、農業神として信仰されており、富田八幡宮(勝日神社、島根県安来市)、太郎坊宮(滋賀県東近江市)、英彦山神宮(福岡県田川郡添田町)、西寒多神社大分県大分市)、木幡神社(京都府宇治市)、天日神社(兵庫県伊丹市) 二宮神社兵庫県神戸市)、天忍穂別神社(高知県香南市)、伊豆山神社静岡県熱海市)などに祀られている。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180601#1527849954

福井の銘酒「黒龍 石田屋」 | 名倉 由桂 オフィシャルBLOG

福井県吉田郡

“禅の道場”として知られる

永平寺の近くで700年続く

老舗蔵元『黒龍酒造』。

お水は霊峰白山山系から
じわじわ流れ出た九頭竜川の伏流水


日本三名山霊峰のひとつといわれる

名水でつくられているんですね

九頭竜川 - Wikipedia

古代には福井平野は大きな湖であり、洪水のたびに水害が起きていた。5世紀〜6世紀に掛けて越前を支配していた男大迹王(継体天皇)は九頭竜川河口を広くして湖の水を海に出やすくしたといわれている。継体天皇九頭竜川治水の先駆者であると現在でも伝えられている。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180615#1529059447

Happy Wedding|Sun Shine Blog(生野 陽子) - フジテレビ

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180615#1529059429

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180615#1529059430


 土壇場でのスタメン落ちでもある。3月のベルギー遠征まで約半年招集しなかったハリルホジッチ前監督が4月に解任され、西野監督が後任に就いて追い風は吹いた。西野ジャパン初戦の先月30日のガーナ戦(0●2)、8日のスイス戦(0●2)と2試合連続で先発し、攻撃の中心に据えられた。しかし、2試合を通じて、1年9か月ぶりの国際Aマッチ得点を決める事はできなかった。一方で出場しなかった12日のパラグアイ戦(4○2)では、同じトップ下のポジションを争うMF香川が1得点2アシストし、活躍した。


 連続3大会目のロシアW杯は集大成と位置付けている。初出場した10年南ア大会は1次L初戦のカメルーン戦で初得点を決める →→ など2得点し、16強入り。14年のブラジル大会は初戦のコートジボワール戦でゴールするも1次L1分け2敗の惨敗だった。「優勝」「3大会連続初戦得点」も狙っていると公言していた。


 ロシアは本田がかつてプレーした場所。10年1月から4年間、CSKAモスクワでプレーし、リーグ、カップ戦合わせて4つのタイトルを獲得した。昨年12月に「ロシアでやるW杯です。皆さん、覚えているか、忘れているか分からないですけど、4年間、あそこで住んでいた。そんな日本人なかなかいない。必ずアドバンテージになる」と話しており、ロシアでのプレーに自信を示していた。


 W杯ロシア大会を戦う“西野ジャパン”のメンバーが決まった。それは“反ハリルジャパン”とでも言うべきものだった。


 まず、選手選び。


ハリルホジッチ前監督と衝突し、ハリル体制のままなら落選の可能性が高かった本田圭佑香川真司の両名を選出しました」


 とスポーツ紙デスク。


「逆に、ハリルに見いだされ、アジア最終予選でも得点をゲットした“自慢の息子たち”である井手口陽介浅野拓磨は土壇場で落選。3月の欧州遠征で初招集ながら気を吐いた“秘蔵っ子”中島翔哉西野監督は袖にしました」


 かように“ハリルチルドレン”は冷遇されたのだが、それは単に“ハリル憎し”によるものではなさそうだ。


「ハリル監督は、選手選びも戦術も、どんな相手と対戦するかで組み替えていました。ですから、無名選手でも“コロンビア戦にだけ使う”みたいな秘密兵器として、サプライズ抜擢していたかもしれません」


 と説くのは、スポーツライターの大塚一樹氏。


「翻って、西野ジャパンの陣容は、“上から選びました”と言わんばかりのオールスター。“香川を外して負けたら何を言われるかわからないから入れておこう”というような“言い訳しやすいメンバー”とも言える。ノーサプライズですし、このメンバーを見ても、グループリーグ3試合をどう戦うのかが見えてきません」


 戦術もハリルとは違う。


「ハリルは4バックでしたが、西野監督は先の親善試合ガーナ戦で初めて3バックを採用しました」


 とは先のデスク。


「守備が1枚減ったように思えますが、守る際に両サイドのMFが下がり5バックになる。W杯で日本は主に守勢に回る時間が多くなるので、実質的には5バックという超守備的フォーメーションです」


 だが、これも“3か4か、はたまた5か”という単純な話ではなさそうなのだ。

「ハリルの4バックは、相手によって中盤を組み替える“相対主義”でしたが、西野監督は“絶対主義”。3バックで対応できない3トップ制のガーナに頑なに3バックを貫いた。4バックも練習しているようなので、どちらを採用するかはわかりませんが、“自分たちらしさ”にこだわるあまり柔軟性を欠いているように見えます」


 お気付きだろうか。相対と絶対――現実路線と理想主義と言い換えることもできる両者の対立は、サッカー代表を議論する際に取り沙汰される永遠のテーマ、いわゆる“日本らしいサッカー”を目指すか否か、に行き着くのだ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180611#1528713871


皇太子殿下は2005年の誕生日会見で『子どもが育つ魔法の言葉』などの著書がある米国の家庭教育学者、ドロシー・ロー・ノルトの詩を紹介されました。《批判ばかりされた子どもは非難することをおぼえる(中略)しかし、激励をうけた子どもは自信をおぼえる(中略)賞賛をうけた子どもは評価することをおぼえる(中略)可愛がられ抱きしめられた子どもは世界中の愛情を感じとることをおぼえる》というものでした。

皇太子さまも雅子さまも「普通の子育て」への憧れがあるようです。

雅子さまには現代的な「自分の権利を主張する」というプリンシプルを強く感じます。働く女性のスタンダードな意識ですよね。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180616#1529146623
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180616#1529146637


 一方、公私の別に厳しい明治天皇が川村の家を訪れることはなかった。すると川村はある時、両親王を連れて沼津駅へ行った。明治天皇お召し列車が通るからである。


 明治35年11月19日《午前、(裕仁親王は)雍仁親王と共に沼津停車場にお成りになり、熊本県下における陸軍特別大演習の御統監より還幸(かんこう)途次の天皇に車中において御拝顔になる》(同37頁)


 この時の様子を、両親王の保母となる足立孝が戦後に回想している。


 「明治大帝が汽車で沼津をお通り遊ばすので、川村さんが皇孫さまについて停車場へおいでになったそうです。すると明治大帝はもともとお言葉の少ない方ですので、ただ、にこにこされただけでお言葉も何もないものですから、川村さんがとても心配されたんです。ところが、大帝はあとで女官に『きょうはうれしかったよ。皇孫を川村が駅まで連れて来てくれて、元気なところに会ってうれしかった』って仰せになりましたそうです」


 明治天皇もまた、両親王がかわいくて仕方なかったのだ。

 川村の死後、親王養育の重責を任されたのは、東宮侍従長の木戸孝正だ。安政4(1857)年生まれの当時46歳。維新の元勲、木戸孝允桂小五郎)の甥(おい)で、木戸家の家督を相続し、明治22年から宮内省に出仕していた。なお、裕仁親王より2年早く生まれた長男の幸一はのちに昭和天皇の側近中の側近となり、終戦の聖断に向けて奔走することになる。

 11月9日、両親王は川村邸を引き払い、木戸が常駐する東宮御所の敷地内に移った。親王の養育は臣下があたるという慣例上、父母の皇太子・同妃と一つ屋根の下で暮らすわけではないが、両親王が起居することになった新造の皇孫仮御殿は東宮御所と庭続きで、皇太子・同妃と接する機会が格段に多くなる。


 だが、そのことを大きく報じた新聞記事はない。当時の紙面が、国家最大の非常事態で埋め尽くされていたからだ。


 日露戦争である。


 この時、満州では、のちに裕仁親王の帝王教育に深くかかわる第3軍司令官乃木希典の指揮の下、旅順要塞への総攻撃が行われようとしていた−−。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180506#1525603566
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180413#1523616237
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180311#1520766256
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180211#1518346006
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170704#1499164372


 自民党第3派閥の額賀派額賀福志郎財務相の会長退任を求める「額賀降ろし」が勃発した。同派の歴史を振り返ると、キングメーカーとして君臨した田中角栄元首相率いる田中派を乗っ取る形で竹下登元首相が経世会を旗揚げするなど、党総裁選を引き金にした「血塗られたクーデター」による分裂を繰り返してきた。平成に入っても骨肉の抗争劇はなお健在のようだ。


 昭和47年7月、長期政権を築いた佐藤栄作首相(自民党総裁)の退陣表明に伴う総裁選で、田中氏はライバルの福田赳夫元首相を決選投票の末、退けた。佐藤派領袖の佐藤氏は福田氏を推したが、これに不満を募らせた佐藤派所属の田中氏は総裁選前から派内で多数派工作を画策して田中派を結成、分裂した。


 その田中派は最大派閥に躍進し、「数の力」と「鉄の結束」を武器に政界の実権を握った。だが、田中氏のロッキード事件での逮捕を境に求心力は低下した。田中氏は「闇将軍」として他派閥の有力議員を首相に担ぐ一方、派内からは総裁候補を出そうとしなかった。後継者も決めない状況への不満も渦巻いていた。


 そこで反旗を翻したのが当時次代のリーダーと目されていた竹下氏だ。派内に勉強会「創政会」を立ち上げ、62年の総裁選前に田中派140人のうち110人超を引き連れて飛び出し、総裁の座を手に入れた。


 創政会は「経世会」(竹下派)に衣替えし、「竹下支配」が続いたが、平成4年、またも派内抗争が表面化した。最大派閥の竹下派領袖は事実上、党総裁、首相の座に直結する。羽田孜氏を推す小沢一郎氏らに対し、反小沢勢力は小渕恵三氏を支持した。結局、小渕氏が派閥領袖に就任し、これに反発した小沢、羽田両氏らは竹下派を離脱した。


 小渕派時代の10年も総裁候補として小渕氏を担ぐことに反発した梶山静六氏が、額賀派時代の23年には石破茂氏らが相次いで離脱した。ただ、過去の分裂劇は後継者が総裁を目指して飛び出すケースが多く、「総裁候補不在」という今回の抗争は少し事情が異なっている。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180613#1528886404田中角栄


 官僚を生かすためには政治主導が必要だ。しかし、今の日本の政治に、本当の政治主導があるだろうか。


 昔は自民党の政調がすべてを決めていた。オールマイティーだった。そこを通らないと各省庁は何もできなかった。今は政調も総務会も全然役割を果たしていない。

党を作っているのは政治家だ。その政治家が死んでしまっているから、党が死んでしまい、政治が死んでしまっている。

 それは政治家がサラリーマン化したからだ。国から給料をもらって、大臣にしてもらって喜んでいる。自分たちで本当に政策を作っているのか。

 官僚の作文がそのまま法律として成立して、それに国民が従う。国民の代表は政治家であって、官僚ではない。官僚が作った法律に賛成しているだけでは、国会の意味がない。選挙をして国会議員を選んでも意味がなくなる。民主主義の危機だ。


 当時の検察関係者によると、政界ルートでは、特捜部は「江副と中曽根の関係はかなり濃密」と判断していた。中曽根の秘書ら3人に計2万9千株の未公開株が渡り、およそ6千万円の利益を得ていたことをつかんでいた。検察でいう「射程圏内にあった」とされるが、職務権限と結びつかず立件は見送られたという。

 人事権を握る政治家は官僚に強く、許認可権をもつ官僚は業者に強い。そして金と票をもつ業者は政治家に強い−。この「トライアングル」は補完し合うことで力を増していた。業者は政治家を通して官僚への食い込みを図る。リクルート事件も同じ構図だった。

 リクルート事件は、特捜部が過去に摘発した造船疑獄事件やロッキード事件と肩を並べる政界、官界、財界を巻き込んだ大疑獄事件となったが、その背景には当時が「金権政治」の全盛期だったことがある。

 51年に発覚したロッキード事件など「政治とカネ」の問題が起きるたびに政治資金規正法が改正され、政治家は自力で資金を集めなければならなくなった。


 その一方で、選挙にかけるカネは増え続けた。中選挙区制で、政策に違いがない自民党議員同士が激しい選挙戦を繰り広げるため、資金力や利益誘導などで競うようになったからだ。その結果、金銭感覚はさらにまひした。


 産業界も官僚主導の政策決定や中央官庁の許認可に関与するには自民党の有力な「族議員」を押さえておけばよかったが、幅広く手を打たなければ政策決定などをコントロールできなくなっていった。実際、リクルート社も職務権限がない国会議員にまで未公開株をばらまく“じゅうたん爆撃”を仕掛けていた。

 特捜部がリクルート事件に続いて手がけたのが、東京佐川急便事件だった。平成4年8月、東京佐川急便の元社長から自民党副総裁、金丸信への5億円献金問題が表面化した。元幹事長の小沢一郎は首相、宮沢喜一に「恣意(しい)的な権力の執行はよろしくない」と訴えたが、約1カ月後、金丸は政治資金規正法違反の罪で略式起訴される。


 金丸が率いる自民党最大派閥の竹下派経世会)は当時、全国に張り巡らした支持組織や地方議員のネットワークを武器に、政・官・業のトライアングルの中心に君臨していた。その「本丸」に特捜部は切り込んだ。


 小沢は、これまで国会議員が政治団体のことで直接刑事責任を問われることはなかったのに今回はなぜ刑事責任を問うのか、と釈然としないでいた。


 リクルート事件で大物政治家たちは軒並み立件をまぬがれ、国民の「政治不信」は高まっていた。それだけに、特捜部は東京佐川急便事件では、捜査を牽制(けんせい)する永田町からの「雑音」を避けるため、国民世論を味方につけようと動いていた。


 小沢は徹底抗戦の戦略を描いたが、国対委員長梶山静六ら反小沢系の竹下派有力議員はさっさとけりをつけた方がよいと考え、特捜部の動きを黙認した。派内の主導権争い、権力闘争に検察捜査を利用したという構図だった。


 小沢は後年、「権力闘争的な面もあった」と周囲に語っている。行き着いた先は竹下派分裂だった。それは自民党下野、55年体制崩壊の引き金となり、今も続く政界流動化につながっていく。


 平成4年8月27日、東京・永田町の自民党本部。記者会見した党副総裁、金丸信は、東京佐川急便の元社長からの5億円の献金受領をあっさり認めた。「私の不徳の点が多々あった。責任をとるべきだと思う」。そう語ると、副総裁と竹下派経世会)会長の辞任を表明した。


 当時の経世会は「鉄の結束」を誇る自民党最大派閥。党内だけでなく、政・官・業に圧倒的な影響力を持ち「経世会支配」と言われていた。トップに立つ金丸は「政界のドン」と呼ばれ、時の首相、宮沢喜一も金丸の“ツルの一声”で誕生したとされるほどだった。


 その金丸が多額献金を認めた。「同志への陣中見舞いと認識した」。何か意図があるのか、権力者の慢心か−。さまざまな観測が広がったが、この会見こそが、今も続く政界再編の動きが始まった瞬間だった。

 その4日後、神奈川県箱根町で行われた経世会の議員研修会。自民党総務局長、野中広務が挙手し、発言を求めた。派閥事務局長の船田元が許可すると、野中はおもむろにこう訴えた。


 「わが派のなかで不穏な動きがある。経世会として一致団結してきた流れから見て由々しき問題だ」


 会場は騒然とし、出席議員の表情はこわばった。金丸の寵愛(ちょうあい)を受けた会長代行、小沢一郎を公然と批判したと受け止めたからだ。小沢系と反小沢系の対立は決定的となった。

 いったんは「金丸−小沢」態勢を維持することでまとまったものの、金丸が10月14日、議員辞職願を衆院議長に提出。経世会オーナーの元首相、竹下登リクルート事件の影響で表舞台から身を引いていたため、小沢系と反小沢系による「跡目争い」が本格化する。

 迎えた10月21日。この日は竹下派の後継会長選びの決着期限だった。


 これに先立つ20日の最高幹部会。反小沢系の橋本龍太郎は「小渕恵三を推薦したい」と発言した。船田は小沢を推したが、小沢は「時期尚早だ」として拒み、「羽田孜を推薦したい」と語った。


 事前の打ち合わせで「小沢推薦」のシナリオができていたため、船田は目を丸くし、小沢系の佐藤守良と顔を見合わせた。だが、小沢の発言は「絶対」。羽田VS小渕の構図が固まった。


 小沢系は多数派工作を進めており、経世会衆院議員67人のうち36人の署名を集めていた。


 小沢「羽田を推薦する」


 橋本「羽田は閣僚(蔵相)だ。国事優先だ」


 21日の午前10時に始まった最高幹部会は双方がつばぜり合いを演じ、決着にはほど遠いまま。日付が変わった頃、幹部会座長の派閥顧問、原田憲が突如、幹部会を中座し、記者団に「会長は小渕君が適任と考える」と見解を表明した。


 小沢は「座長としての職務放棄だ」と反発。幹部会を飛び出すと午前2時45分過ぎ、小沢系議員らと記者会見を開き、座長見解の白紙撤回を要求した。だが、中立を装っていた参院議員42人が「座長見解」支持で結束。22日の最高幹部会は小沢らが欠席する中で「小渕会長」が決まる。


 船田はその時のことを、こう振り返る。「わが派は昔から参院が強い。『参院の岩盤』という力を竹下さんが利用しないはずはない」。文字通り、小沢も認める権力争いだった。


 米海軍に所属する世界最大級の病院船「マーシー」(全長約272メートル)が日本に初めて寄港し、東京都大田区の大井水産物ふ頭で16日、歓迎式典が開かれた。東日本大震災で病院機能がまひした経験から、日本政府は医療拠点として船舶の活用を検討しており、米軍の対処法などを学ぶ狙いがある。


 式典では、インド太平洋地域で人道支援を行う「パシフィック・パートナーシップ」を指揮するデビッド・ブレッツ大佐が「病院船の能力を披露するだけでなく、両国の人道支援、災害支援能力を高める機会になる」と寄港の意義を強調した。


 マーシーは80床の集中治療室(ICU)を含む計1000床の病床があり、手術室を完備。災害時は1000人以上の医療軍人らが乗り込む。


アフガニスタンではイスラム教の断食月ラマダン明けの祝日に合わせて、17日までの3日間の予定で政府とタリバンが一時停戦に入っています。


しかし東部ナンガルハル州で16日、タリバンや政府の治安部隊などが一堂に会し停戦を祝う集会を開いていたさなかに自爆テロが発生し、地元政府によりますと少なくとも26人が死亡しました。


テロはタリバンと敵対関係にある過激派組織IS=イスラミックステートによる犯行だと伝えられています。


こうした集会は停戦開始後各地で開かれ、融和ムードが広がりつつありました。


しかしタリバンの報道官は17日声明を発表し「敵が停戦を利用しさらに不都合なことが起きるおそれがある」として、タリバンの戦闘員がISによるテロに巻き込まれないよう集会への参加を禁止するなど警戒感を強めています。


今回の停戦は3年前から途絶えている政府とタリバンによる和平協議の再開のきっかけになるのではないかと期待されていましたが、和平に向けた道筋は不透明な情勢となっています。

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おやつ - Wikipedia

第二十三回「寺田屋騒動」|NHK大河ドラマ『西郷どん』

寺田屋事件 - Wikipedia

文久2年4月23日(1862年5月21日)に薩摩藩の事実上の指導者・島津久光薩摩藩尊皇派を始末した事件。「寺田屋騒動」とも言う。


藩兵千名を率い上洛した久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負っていた。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。また久光は秩序を重んじる厳しい性格で、すでに西郷隆盛村田新八森山新蔵を捕縛して大阪から帰藩させるように命じて粛清しており、京都の志士の思惑とは全く趣を異にした考えの持ち主であった。それで4月13日に伏見に到着した久光は、16日に入京し、朝廷より志士始末の命を授かる。


この展開に驚愕した薩摩藩の過激派は、憂国の念から憤激し、有馬新七柴山愛次郎橋口壮介らは、諸藩の尊王派志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して、関白九条尚忠京都所司代酒井忠義を襲撃してその首を持って久光に奉じることで、無理矢理にでも蜂起を促すということに決した。この襲撃の前に、根城としていた薩摩藩の二十八番長屋から出て、伏見の船宿寺田屋に集まることを計画していたが、当時寺田屋薩摩藩の定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だったようである。

奈良原は説得を続けたが、君命に従わぬのかと激高する道島が「上意」と叫んで抜打ちで田中謙助の頭部を斬り、こうして“同志討ち”の激しい斬り合いが始まった。

この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かった。

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