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#109 関門海峡・門司 〜関門海峡はなぜ“関門”?〜 | タモリのブラブラ足跡マップ | ブラタモリ - NHK

中宮寺 - Wikipedia

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180716#1531738248

プッチーニのオペラ「トスカ」 | 名倉 由桂 オフィシャルBLOG

新国立劇場で『トスカ』鑑賞。

新国立劇場20周年記念

本日、21日(土)22日(日)と

滋賀県の“びわ湖ホール”でも行われます。

びわ湖ホール・新国立劇場提携オペラ公演 プッチーニ作曲 歌劇「トスカ」特設ページ | 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール


2012年公演より


新国立劇場2018年7月1日公演より

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180718#1531910642


 私がここで見ようとするのは、近世庶民の人間的な自立への要求がどのような言語をもって語られていったかである。それは容易くいわれる言語ではない。「心ノ工夫」という精神の苦闘を経ていい出される言語である。梅岩たちが践まざるをえなかったこの内面のプロセスに思い入ることなくその言語を見るものは、ただそこに分際に安んぜよという体制従属の意をしか読まないだろう。

 現に一定の社会的諸条件に置かれている自己の存在を、自然的諸事物と同様に天命によってかくあるととらえるためには、自己を無にして自然と同化する内的プロセスを必要とする。梅岩のいう「心ノ工夫」である。ここに一種の仏教的な覚醒が導入される。

覚醒の境地においては、我は天に外ならない。そして主体の能動性は、自己という意識を否定することによって、天地自然と一体化する存在直観に凝集されねばならない。

 私心私欲として否定される「人我」も、自己否定による天地自然との一体化に向かう能動性として立て通されねばならない。このような自己否定と再発見のプロセスによって、「今日我心ノアル所」を天命による自然必然的な存在として知るのである。

この目覚めに不可欠であるのは、「己レニ克ツトハ己レヲ忘レルコトナリ」という自己否定の内面的プロセスである。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169941(恋愛結婚そのものには反対ではありません。しかし、紀子さま眞子さまに『目を覚まして』と思われていることでしょう。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169946(修身斉家治国平天下)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169950(「かぶき的心情」とは何か)


「東郷は運のいい男でございますから」


 東郷平八郎連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)する際、ときの海相山本権兵衛明治天皇に、こう説明したと伝えられる(※1)。

 わずか6日間で、主力の戦艦2隻を含む8隻を戦わずして失ってしまったのだ。


 連続する凶報に、海軍上層部が激しく狼狽(ろうばい)したのは言うまでもない。アルゼンチン海軍から購入したばかりの装甲巡洋艦2隻を充当し、何とか決戦力を維持したものの、これ以上の喪失は毛ほども許されなかった。


 このとき、悪夢の連鎖を断ち切ったのは、東郷自身である。連合艦隊の参謀らが食事ものどを通らないほど消沈する中、全責任を負うべき東郷のみは、いささかも動揺の色をみせなかった。


 沈没した初瀬、八島の両艦長が旗艦三笠に東郷を訪れ、号泣して謝罪したとき、東郷は静かに言った。


「御苦労だったね」


 戦前の海軍内部に精通し、大海軍記者と呼ばれた伊藤正徳(※3)が、当時の東郷をこう書く。


 「少しも取り乱さず、というような叙述では、とうていその姿を描くことはできない。あたかも、悲しみの作用をつかさどる神経を手術摘出してしまった人間のように、悲しみを示さなかった。(中略)日本海軍はよい司令官を持ったものである」


 将器は、逆境においてこそ発揮される。このとき東郷が動揺の色をみせれば、それは連合艦隊の全艦船に伝染し、全将兵を萎縮させただろう。その結果、新たな失策を生み出しかねなかった。

 主力艦の喪失は、図らずも膠着(こうちゃく)した戦局を変えた。ロシアの旅順艦隊が6月23日、日本側の戦力低下に乗じて出港してきたのだ。もっとも司令長官のヴィトゲフトは、連合艦隊の闘志に微塵も揺らぎのないのをみて、一戦も交えず旅順港に逃げ戻った。この弱腰に極東ロシア軍の総指揮官アレクセーエフは憤慨し、皇帝ニコライ2世の勅命を取り付けて再度の出港を厳命する。


 8月10日、今度こそ旅順艦隊は、不退転の決意で旅順港を出港した。


 待ち構える連合艦隊にとって、このチャンスを逃すわけにはいかない。東郷の運が本物かどうか、いよいよ試されるときが来たのだ−−。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169944

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169940
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169945
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180720#1532083507(芸術と社会の関係、ミュージアムを通して見る世界史に関心がある。)

#インテレクチュアル・ヒストリー

英語で「日記」は「ダイアリー」ではない? diary と journal の違い - 小さな世界ブログ -2015年 過去ログ

以前からLang8というサービスで日記を書いては、英語ネイティブの皆様に校正と添削をしてもらっております。おかげさまで、だいぶ英文を書くのが苦に成らなくなってきました。

英語では、「人に見てもらうような日記、メモ、その他自分の感想文」のことを総称して


「journal」


と表現するのだそうです。


一方、誰にも見せない前提の、秘密性の高い日記を


「diary」


と一般的に呼ぶことが多いそうです。

The difference between "jorunal" and "diary" | 外国語を学習するならLang-8

随筆 - Wikipedia

ミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』(1580年)がこのジャンルの先駆者であり、欧米においては綿密な思索を基にした論文的なスタイルを念頭に置いてこの語を用いることがあるが、日本においては後述する江戸時代後期の日記的随筆のイメージもあって、もうすこし気楽な漫筆・漫文のスタイルを指して用いることがある。

日本語以外の文化圏で日本語の「随筆」に相当する「Essay」の萌芽は古代ローマキケロセネカプルタルコスなどの作品に見ることができるが、本格的にこのような文学形態を創始したのはフランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュであるとされる。フランス語で「試み」を意味する著書『エセー』(essai)において、身辺における様々な事物の考察を通し、自己の内面の探求を試みた。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169940


 午前7時半すぎ、愛子さまはお住まいの東宮御所を出て羽田空港へ向かい、民間機でイギリスへと出発されました。


 学習院女子高等科の海外研修プログラムを利用して、ロンドン郊外にある名門「イートン校」のサマースクールに参加するためで、寮生活を送りながら英語の授業を受けるほか、イギリスの名所を訪れるなどして、現地の歴史や文化に触れられます。


 愛子さまがご夫妻と離れ、お一人で海外に滞在するのは初めてのことで、来月9日に帰国される予定です。


愛子さまは22日朝、お住まいのある赤坂御用地を出て車で羽田空港に向かう際、報道陣から「いってらっしゃいませ」と声をかけられると、にっこりとほほえんで会釈されました。


このあと、ほかの生徒たちとともに、昼前にイギリスに向けて出発されました。


学習院女子高等科2年生の愛子さまは、来月8日まで3週間近くイギリスに滞在し、ロンドン郊外の名門校「イートン校」が提供する英語教育のサマースクールに参加されます。
滞在中は、一緒に参加する40人近い生徒たちと寮生活を送りながら、英語の授業を受けたり、イギリス文化の体験学習として、さまざまな都市や施設を訪ねたりする予定で、かつて皇太子さまや雅子さまが留学されたオックスフォード大学も見学されるということです。


宮内庁によりますと、愛子さまはサマースクールでの新しい体験を楽しみにしていて、訪問先について事前に勉強するなど準備を進められてきたということです。


愛子さまがお一人で海外に滞在するのは初めてで、来月9日に帰国される予定です。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169940
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180720#1532083507(上0:46)

Mohamed A. El-Erian - Wikipedia

El-Erian was born in New York City on August 19, 1958 to an Egyptian father and a French mother. Shortly after his birth, the family moved to Egypt, where El-Erian spent some of his early childhood along with short periods in Europe where his father attended meetings of the UN law commission. In 1968, the family moved back to New York when his father took a position at the United Nations. From 1971-73, they lived in France, where El-Erian's father was the Egyptian Ambassador to France.


After attending St John's School, Leatherhead, a boarding school in the United Kingdom, gaining an entrance scholarship to Queens' College, Cambridge and receiving a first class honors undergraduate degree in economics, he obtained master's and doctorate degrees in economics from Oxford University. In June 2011, El-Erian received an honorary doctorate degree from the American University in Cairo. Following a Governing Body decision, he was admitted in December 2013 as an Honorary Fellow of Queens' College, Cambridge.


El-Erian has served on the board of trustees of several educational institutions, including Pegasus, St. Margaret School. Cambridge in America and KAUST. He co-chairs the capital campaign for Cambridge University.

St John's School, Leatherhead - Wikipedia

Queens' College, Cambridge - Wikipedia

University of Oxford - Wikipedia

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180621#1529578127

憲仁親王妃久子 - Wikipedia

学位は博士(芸術文化学)。

1953年(昭和28年)7月10日、商社に勤務する鳥取滋治郎・二三子夫妻の長女として誕生。鳥取家は香川県三豊郡笠田村(現・三豊市)の旧家の家柄であった。聖心女子学院初等科・中等科を卒業後、三井物産に務める父のイギリス転勤のため渡英。ケンブリッジ大学ガートン・カレッジで人類学・考古学を学び、1975年(昭和50年)に卒業した後、日本に帰国し翻訳会社に勤める。再度、法律を学ぶために渡英し、1982年(昭和57年)に帰国した。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169941

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169940(洗練された立ち居振る舞いを目の当たりにする)

安岡正篤を学ぶ - 『小学』を学ぶ/安岡正篤活学一日一言... | Facebook

ある時新進の進士が訪ねて来て、「私も進士の試験に及第しましたが、これから一つどういうふうに勉強すればよろしいのでしょうか、ご教示願いたい」と頼んだ。
章楓山はこれに答えて「何といっても「小学』をやることですね」といった。

そうして家に帰り、何となく『小学』を手にとって読んでみたところが、誠にひしひしと身に迫るものがある。そこで懸命に『小学』を勉強して、再び章楓山を訪れた。

「だいぶ『小学』を勉強しましたね」。びっくりして「どうしてわかりますか」と訊ねたところ、「いや、言語・応対の間に自からあらわれておりますよ」と答えたということであります。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169946

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169947
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180721#1532169948


在韓米軍のブルックス司令官は21日、アメリカ西部コロラド州で開かれた安全保障をめぐる討論会で講演しました。


この中でブルックス司令官は、北朝鮮がことし5月に核実験場を爆破する様子を公開したことに触れ、「実験施設は破壊されたが、核兵器の製造は別問題だ。われわれは製造工場の閉鎖を見ておらず、北朝鮮が核燃料を放棄したということもない」と述べました。


そのうえで、「北朝鮮核兵器の製造能力は失われていない。北朝鮮は二面性のある国家で、製造工程を温存している意図をよく分析する必要がある」と述べ、本気で核を放棄する意志があるのか慎重に分析する必要があるという考えを示しました。


北朝鮮の非核化をめぐっては、史上初の米朝首脳会談を受けて今月上旬にポンペイ国務長官が訪朝したものの、北朝鮮外務省が、その後、「一方的で強盗のような要求だけを持ち出した」と批判するなど、立場の隔たりがあらわになっていて、アメリカ国内では、非核化の実現に懐疑的な見方が広がっています。


G20=主要20か国の財務相中央銀行総裁会議に出席するためアルゼンチンを訪れている日銀の黒田総裁は、会議に先立って記者会見しました。


この中で、黒田総裁は、保護主義的な貿易政策を進めるアメリカと、中国などとの間で貿易摩擦が激化していることについて、「貿易の保護主義は、順調に成長している世界経済に悪い影響を与え、どの国にとってもメリットがない」と述べました。


そのうえで、「自由貿易の重要性を確認し、関税引き上げの激化が収まる議論をするべきだ」と述べ、今回の会議では、貿易摩擦が収まる方向で議論が行われることを期待する考えを示しました。


また、会議を前に、アメリカのトランプ大統領が今の為替水準はドル高で輸出に不利になっているとして強い不満を示したことに関連し、黒田総裁は、輸出に有利になるよう自国通貨を安く誘導しないことはG7やG20でもすでに合意されているとして、「特別な懸念は持っていない」と述べました。


G20は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで2日間の日程で始まりました。


これに先立って、議長国、アルゼンチンのニコラス財務金融相とともに会見したIMFのラガルド専務理事は、アメリカが保護主義的な姿勢を強めていることについて「保護貿易や関税がエスカレートしていくと、世界経済にどんな影響を与えるのか、注意深く見守っている」と述べました。


そのうえで、「世界経済に影響が拡大していくことは望まない。アメリカの通商政策の行方を見ていく必要がある」と述べ、アメリカ側の動きをけん制しました。


一方、トランプ大統領が、中国やEU=ヨーロッパ連合が為替を操作していると批判していることに関連し、ラガルド専務理事は、為替について「今回のG20の重要なテーマで、議論することになるだろう」と述べて、通商政策と密接に関わる為替政策も議論されるという見方を示しました。

アメリカ、ワシントンの経済政策研究所のシニアエコノミスト、ロバート・スコットさんは、トランプ政権が貿易赤字の削減のために中国からの輸入品に関税を上乗せしても、中国の為替政策次第で効果がなくなるという見方を示しています。


ロバート・スコットさんは「中国は、自国の通貨を下落させるという最後の切り札とも言える措置で対抗できる。中国からの輸入品はより安くなり、中国への輸出品はより高くなるので、関税上乗せの効果はなくなってしまうからだ」と述べたうえで、「トランプ政権による関税上乗せ措置は、自滅的な政策だ」と指摘しています。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180720#1532083518
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180720#1532083519


ロシア外務省によりますと、ラブロフ外相は21日、アメリカのポンペイ国務長官と電話で会談しました。


この中で、双方は、今月16日に行われたトランプ大統領プーチン大統領の首脳会談の結果を踏まえ、内戦が続くシリアでの人道支援朝鮮半島の非核化をめぐって協力できないかなど、米ロ関係の正常化に向けた対応について意見を交わしたということです。


ロシア政府としては、欧米の制裁などロシアを取り巻く環境が厳しい中、シリア情勢など、協力できる可能性のある分野からアメリカとの対話を始め、米ロ関係の改善に向けた糸口をつかみたい考えです。


一方、ラブロフ外相は、ロシア政府のスパイとして活動した疑いでアメリカの司法当局が逮捕したロシア人のマリア・ブティナ容疑者について「容疑はねつ造されたものだ」などと主張し、早急に解放するよう求めました。

Impossible to teach robots to love – robotics inventor RT — SophieCo

While the idea of humans and robots walking the streets is still just a dream, in reality, robotics is already taking over our daily lives. Will we be able to create thinking robots in the future, and ultimately, is that something we really want? We talked to Peter Redmond, engineer, robotics guru, and creator of the intelligent RuBot robot.

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第二十七回「禁門の変」|NHK大河ドラマ『西郷どん』

平岡円四郎 - Wikipedia

文久3年(1863年)、慶喜は上京し公武合体派の諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川嘉兵衛によるものと攘夷派には奸臣と見なされており、江幡広光、林忠五郎らに暗殺された。

禁裏御守衛総督 - Wikipedia

江戸時代末期(幕末)に幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏(京都御所)を警護する為に設置された役職のことである。任命された徳川慶喜は、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため、摂海防禦指揮(せっかいぼうぎょしき)という役職にも同時に任命された。


元治元年(1864年)3月25日、一橋慶喜徳川慶喜)は、将軍後見職を免ぜられると同時に禁裏御守衛総督に就任した。朝廷から任命された役職ではあるが、禁裏御守衛総督の役料として幕府より月に7500俵受け取る合意を得た。配下に京都守護職松平容保京都所司代松平定敬らを従え、江戸の幕閣達から独立した動きをみせ、 在京幕府勢力の指導的役割を果たす存在となった。→(一会桑政権を参照)。

徳川慶喜 - Wikipedia

禁門の変において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。禁門の変を機に慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制)。また老中の本庄宗秀・阿部正外が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。それに続く第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末に遂に勅許を得ることに成功したが、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された。

池田屋事件 - Wikipedia

幕末の京都は政局の中心地として、尊王攘夷・勤王等の各種政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏し、活動をしていた。会津藩薩摩藩による『八月十八日の政変』で、長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職新選組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。


5月下旬頃、新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡等が発見された。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。(しかし、自白したのは自分の本名が古高俊太郎であることのみ、という説もあり、古高俊太郎について述べられた日誌には自白内容の記述がされていないことから自白は本名のみであった可能性が高い)


さらに、長州藩土佐藩肥後藩等の尊王派が、逮捕された古高奪回のための襲撃計画について、実行するか否かを協議する会合が、池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めた。

長州藩は、この事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、7月19日(8月20日)に禁門の変を引き起こした。

禁門の変 - Wikipedia

蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。

前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。


大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜会津藩桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる(一会桑政権も参照)。


禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。

帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。

御所に向かって発砲したこと、藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことも重なり、23日には藩主・毛利敬親に追討令が発せられ、長州藩は朝敵となった。長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたとされ、薩摩や会津への深い遺恨が後世に伝わっている。

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