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もちろん、昨年春の天皇代替わりによって、秋篠宮さまが継承順1位となったことは紛れもない事実です。しかし、それはあくまでも現時点での『暫定1位』であると言うべきではないでしょうか。

皇室典範第8条に「皇嗣たる皇子を皇太子という」との表現があります。この条文を易しく言い換えれば「跡継ぎである天皇の子を皇太子と呼びます」ということになり、「皇嗣」は特定の人を指し示す固有名詞ではなく、「天皇の地位を嗣ぐ者」の意味であることが分かるはずです。皇太子もまた「皇嗣」であることに変わりはないのです。

もう一つ考えなければならないのは「皇太弟」という言葉の存在です。これは読んで字のごとく、「皇太子の弟バージョン」と言えます。ですから「次の天皇として確定した、天皇の弟」ということになります。「皇太弟」は歴史的にも実在しました。現在の法令に、その規定はありませんが、皇室典範風に言うのなら「皇嗣たる皇弟を皇太弟という」とでもなるでしょうか。

日本古代史や中世史の研究者によれば、「皇太子」も「皇太弟」も、元々は次期天皇の地位を巡って宮中でいさかいが絶えなかったため、「これで決まりです」と決着をつける意味でつくられた地位です。

今回、秋篠宮さまはこの「皇太弟」にはなりませんでした。上皇さまの退位を実現する皇室典範特例法制定の過程で議論はされましたが、秋篠宮さま自身が皇太子や皇太弟といった特別な呼称に難色を示したようで、検討の結果、「皇嗣殿下」に落ち着いたといいます。

秋篠宮さまには「自分は皇位を継ぐ前提での教育を受けていない」という負い目のような意識があるとも聞きます。今回の「立皇嗣の礼」の様子をテレビで見ていて、私は、天皇、皇后両陛下の前に進む秋篠宮さまの表情が晴れやかさを欠いていると感じました。か細い声は力なく、視線もふらふらと定まっておらず、大変失礼ではありますが、とても「次の天皇としての覚悟」ができているようには見えませんでした。

特例法は、皇嗣について「皇太子の例による」と定めていますので、「事実上の皇太子」「皇太子と同格」とみなされる傾向がありますが、「皇太子」と「皇嗣」では、これまで見てきたように、重大な違いがあります。今回の儀式を「次期天皇決定宣言の場」と位置付けるのであれば、秋篠宮さまは「皇太弟」になるべきでした。逆に言えば「皇太弟」でない以上、次期天皇は決まっておらず、秋篠宮さまはやはり「暫定1位」と言うしかありません。

話は変わりますが、今回の儀式でもう一つ気づいたことがあります。夕方から行われた「朝見の儀」での両陛下の言葉です。天皇陛下は弟に対し「これまでに培ってきたものを十分にいかし、国民の期待に応え、皇嗣としての務めを立派に果たしていかれるよう願っています」と話しました。皇后さまは「どうぞ、これからもお健やかにお務めを果たされますように」と語りました。

この言葉がなぜか私の心に残り、とても優しく穏やかな印象をもたらしました。内容としてはごく普通なのに、なぜそう感じるのだろう。考えているうちに気がつきました。2人とも弟に対して敬語を使っているのです。

また、上皇さまが「培ってきたものをさらに磨き」と述べた部分を、陛下は「十分にいかし」と言い変えています。

 宮内庁が13日に公表した文書には、「今後の予定等については、今の時点で具体的なものをお知らせすることは難しい状況です」とある通り、残念ながら具体的な記述は見られない。結婚したいという2人の気持ちは分かるが、果たして現実問題として、今後、結婚までのプロセスが順調に進むのか。さらに、2人の結婚に不安を感じる多くの国民が、この文書で納得するであろうかと、私はいささか疑問に感じている。

 小室家が、金銭トラブルを解決し、多くの国民が納得し喜んでくれる状況にならなければ、2人の正式な婚約に当たる納采の儀は行えないと、秋篠宮は、国民に対してはっきり説明したのだ。この言葉、今でも変わらず生きていると思う。しかし、眞子内親王たちは、この父親の思いを、どのように解決しようとしているのか、また、具体的な方法などは、今回の文書の中でまったく触れていない。

 私の取材する限り、当初から秋篠宮は、小室氏に高い年収を求めてはいなかった。パラリーガルのままでもよいと考えていたのだ。

 とにかく、秋篠宮は、「2人が身の丈にあった生活をすれば、それでよいではないか」と、若い2人に理解を示し、柔軟に考えていたのだ。このことを確認しておきたい。

 こうして振り返ってみると、秋篠宮邸での話し合いを受けて、小室氏が秋篠宮の忠告に、素早く対応していれば、事態は大きく違っていたのかもしれない。ここまで小室氏との結婚がこじれていることや秋篠宮の厳しい姿勢が明るみに出ることはなかった。もし、彼が、金銭トラブルを早く解決していれば、秋篠宮の評価は逆に高まったかもしれない。金銭トラブルを処理した後で、「国際弁護士を目指すため、海外留学したい」と言えば、あるいは秋篠宮は彼を祝福し、喜んで外国に送り出していたかも知れない。しかし、全ては逆だった。

 文春オンラインが先日行った眞子内親王の結婚についてのアンケートでは、「B.秋篠宮さまのお言葉のように、多くの国民が納得し、喜ぶ状況になるまで結婚は待つべきだ」と回答した読者が、全体の7割を超えたという。私は、このアンケート結果を秋篠宮夫妻はお喜びだと思う。親として時には子育てに自信を失くしかねない場面もあるかと思う。それだけに、この結果は、秋篠宮夫妻に勇気と希望を与えるのではないだろうか。

 今後、金銭トラブルが、仮に解決しても、秋篠宮納采の儀を認めることは極めて難しい状況ではないだろうか。なぜならば、このアンケート結果が示すように、多くの国民は、小室氏が眞子内親王の結婚相手となることに、納得していないからだ。

「たしかに今回の音源からは、小室さんの優秀さが垣間見えます。しかし、秋篠宮さまが求めていらっしゃったのは、金銭トラブルや将来設計についての真摯な説明です。小室さんに対して立派な肩書や高い収入を要求されていたわけではありません。留学の成果を示したところで、秋篠宮さまの不信感が拭えるとは思えませんが……

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#天皇家

Twitterを見てるとわかる。

新型コロナウイルスの感染者の発表が、14日まで、3日連続で過去最多を更新する中、菅総理大臣は、15日、総理大臣官邸で、川崎市健康安全研究所の所長で、政府の分科会のメンバーも務める岡部信彦・内閣官房参与から感染状況の報告を受けました。

このあと、岡部氏は記者団に、「人が動けば、感染が増えるのは覚悟しないといけないが、重症者が増えるのは困る。一番いいのは、人が移動しないことだが、特効薬としては使えないので、注意深い行動について、うまく説明していくことが大切だ」と述べました。

一方、「Go Toキャンペーン」について、岡部氏は、「皆さんにも注意してもらいながら、やっていくことが重要だ」と述べました。

東京都は、15日、都内で新たに10歳未満から90代までの男女合わせて255人新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表しました。

年代別では、
▼10歳未満が4人、
▼10代が15人、
▼20代が68人、
▼30代が47人、
▼40代が42人、
▼50代が43人、
▼60代が18人、
▼70代が12人、
▼80代が5人、
▼90代が1人です。

都内で1日の感染の確認が300人を下回るのは5日前の11月10日以来です。

200人を超えるのは6日連続です。

感染の確認は曜日ごとにばらつきがあり、傾向が異なりますが、日曜日に200人を超えたのはおよそ3か月前の8月23日以来です。

255人のうち、▼およそ44%にあたる113人はこれまでに感染が確認された人の濃厚接触者で、▼残りのおよそ56%の142人はこれまでのところ感染経路がわかっていないということです。

これで都内で感染が確認されたのは合わせて3万4751人になりました。

一方、都の基準で集計した15日時点の重症の患者は14日より3人減って38人でした。

また、15日は死亡が確認された人はいませんでした。

だが、田中角栄はなぜ葬られたのか。ここでその理由を解明しなければならない。

長年にわたる取材で、実は田中角栄は、日中国交正常化以後、首相在任中の外交課題で繰り返しキッシンジャーらの激しい怒りの対象になっていたことが分かった。怒りは雲散霧消することなく、憎しみに深化していったとみられる。

キッシンジャーが、田中の外交に復讐していたことも分かった。その事実は、今に至るも、日本の外務省にもまったく知られていない。

殺人事件の捜査なら、(1)殺害の凶器、(2)殺害の方法、(3)動機について、証拠を認定することが必要不可欠となる。

(1)田中を葬った凶器とは、「Tanaka」もしくは「PM(首相)」などと明記した証拠文書である。

(2)方法とは、その文書を日本側に引き渡し、刑事捜査を可能にした手続き。つまり、「キッシンジャー意見書」と日米司法当局間の文書引き渡し協定だ。文書は、意見書に基づき、米証券取引委員会(SEC)に渡され、日米協定に従い、最終的に東京地検に渡った。

その結果、東京地検による贈収賄罪事件の捜査が可能になった。キッシンジャーはその際、自ら実行行為に参画したわけではなく、補助的な役割を演じただけだった。

しかし、スキャンダルも、(3)動機が証拠付けられなければ成り立たない。その動機は、刑事事件の動機ではなく、田中を政治的に葬るという動機である。

既述の通り、(1)を含む文書を(2)が示す方向で、最終的に東京地検に届くよう導く役割を演じたキーマンは、事件発覚時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーだった。

残された課題は、キッシンジャーにどんな「動機」があったのか、なかったのかを確認することである。

田中を葬ることにつながる、キッシンジャーの「動機」を示す文書記録は多数残されていた。対立は「日中国交正常化」から、日本の「中東政策」、「日ソ関係」などの外交分野に広がっていた。

その機密文書は翌2006年5月、国家安全保障文書館のホームページにアップされた。テーマはニクソン―フォード政権時代の秘密外交を詳述する2100件のキッシンジャー『会談録』文書」の一つだった。今も、ネット上の同じページに掲載されている(注3)。

筆者をロッキード事件取材に駆り立てたこの文書は、1972年8月31日付で、「トップシークレット/センシティブ/特定アイズオンリー」と指定された「会談録」だ。「アイズオンリー」とは、配布後に回収される文書で、機密度が非常に高い。

キッシンジャー大統領補佐官は、その中で、田中角栄とみられる日本人らを烈火の如く「ジャップは上前をはねやがった」と罵っている。

キッシンジャーはなぜ、そんなに怒っていたのか。「上前をはねた」とは、一体どういう意味なのか。疑問が募った。

この文書こそ、まさにキッシンジャーの激しい「怒り」を示した文書だったのだ。しかも、田中による日中国交正常化を厳しく非難した言葉だった。

この文書からスタートして、米国立公文書館ニクソン大統領図書館、フォード大統領図書館などで、田中首相在任中の米国の文書を渉猟した。長年の取材で分かったのは、キッシンジャーニクソン大統領が、政治家田中の外交政策を嫌悪していたことだった。

日中国交正常化だけではなかった。第四次中東戦争に伴う石油ショックで、田中は日本外交の軸を「アラブ寄り」に転換し、さらに独自の日ソ外交を進めた。日ソ外交で、田中は今も知られていない復讐をされていた。

興味深いのは、田中自身を含めて、日本政府側は当時も今も、こうした米側の思考と外交をほとんど認識していないことだ。

ただ、日本の「アラブ寄り外交」への転換について、田中とキッシンジャーは激論を闘わせており、田中も米側の意向を十分理解したに違いない。

三木清ではないが、キッシンジャーの怒りは度重なり、「復讐心」を持つほどのレベルに達していったのである。

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#政界再編・二大政党制

菅総理大臣は14日夜、ASEAN東南アジア諸国連合の首脳のほか、アメリカのオブライエン大統領補佐官や中国の李克強首相らとともに、地域の安全保障を話し合うEAS=東アジアサミットにオンラインで出席しました。

この中で、菅総理大臣は、東シナ海南シナ海での中国による海洋進出を念頭に、法の支配や開放性と逆行する動きが起きていると指摘したうえで、南シナ海の現状について、各国と深刻な懸念を共有するとして、平和的手段による解決の重要性を強調しました。

また、香港情勢について、重大な懸念を表明し、「香港が『一国二制度』のもとに、自由で開かれた体制を維持し、香港市民と各国の国民や企業の自由と権利が尊重され、民主的、安定的に発展していくことが重要だ」と述べました。

さらに、北朝鮮問題をめぐり、「大量破壊兵器や、あらゆる射程の弾道ミサイルの完全かつ検証可能で不可逆的な廃棄の実現に向けて、国連安保理決議の完全な履行が不可欠だ」と指摘するとともに、拉致問題の早期解決について、引き続き理解と協力を求めました。

そして、菅総理大臣は、「来年の夏、人類が疫病に打ち勝った証しとして、東京オリンピックパラリンピックを開催する。安全・安心な大会を実現するために、今後も全力で取り組んでいく」と決意を示しました。

NHKが入手した議長声明案では、開放性や透明性、国際法を尊重するなどとしたASEAN独自のインド太平洋構想「アセアン・アウトルック」の重要性を強調する文言が盛り込まれています。

外交筋によりますと、議長声明案の中の「インド太平洋」という文言について、中国がアメリカの対中姿勢を暗示するものだとして削除するよう求めているということで、議長国ベトナムが最終的にどのような声明をまとめるのかが焦点です。

アジア太平洋地域での自由貿易圏の構築を目指す、RCEP=東アジア地域包括的経済連携をめぐり、日本や中国、韓国、それに、ASEAN各国など15か国は、15日、オンライン形式で、首脳会議を開きました。

この中で、菅総理大臣は、「日本は一貫して、自由で公正な経済圏を広げ、多角的自由貿易体制を維持し、強化するために率先して行動してきた。RCEPは、市場アクセスを改善するのみならず、知的財産や電子商取引のルールを整備し、地域の貿易や投資を促進し、サプライチェーンの効率化を促すものだ」と述べました。

その上で、「コロナ禍で世界経済が低迷し、内向き思考も見られる中でも、自由貿易を推進していくことがよりいっそう重要だ」と強調しました。

また、今回署名を見送ったインドについて、「地域の経済枠組みに不可欠なプレーヤーであり、協定への将来の復帰に向けて、引き続き、主導的な役割を果たす決意だ」と述べました。

そして、会議では、15か国が協定の内容に正式に合意し、署名式が行われました。

一方、インドについては、協定の発効後、参加を受け入れるとし、要請がありしだい、速やかに交渉を始めるなどとする担当閣僚の宣言をまとめました。

今回の協定で、アジア太平洋地域で、世界の人口やGDPのおよそ3割を占める、巨大な自由貿易圏が生まれることになり、TPP=環太平洋パートナーシップ協定を上回ります。

また、日本にとっては、最大の貿易相手国である中国と3番目の韓国と結ぶ初めてのEPA経済連携協定となります。

政府は、今後、早期の発効に向けて、必要な国内手続きを進めることにしています。

RCEPの署名式に菅総理大臣とともに出席した梶山経済産業大臣は、終了後、総理大臣官邸で記者団の取材に対し、「8年にわたる交渉を締めくくる共同首脳声明が発出され、協定に署名した。早期の発効に向けてしっかり取り組んでいきたい」と述べ、インドを除く15か国で協定に署名したことを明らかにしました。

その上で、「日本の工業製品や農林水産品のアジア圏への輸出拡大に大きく寄与し、アジアにおける自由で公正な経済ルールの構築に資するものと確信している」と述べ、その意義を強調しました。

一方、署名を見送ったインドについて梶山大臣は「インド側の事情で今回の参加を見合わせた。地政学的にも経済全体の規模感を考えてもインドに入って欲しい。できるだけ早くインドが入れるよう日本としても最大限の努力をしたい」と述べました。

RCEP=東アジア地域包括的経済連携は、日本と中国、韓国、インド、それにASEAN東南アジア諸国連合の加盟国などアジア太平洋地域の16か国が参加する世界最大の経済連携協定として2012年から交渉が始まりました。

▽工業製品や農産物の関税の撤廃について話し合う「物品貿易」、▽海賊版の取締りなどについての「知的財産」、▽インターネット上の取り引きなどのルールについて検討する「電子商取引」など、交渉は20の分野にわたりました。

しかし、国内産業への影響を懸念するインドは、去年11月以降、あらゆるレベルの交渉への出席を見送り続け、各国がRCEPの署名に向けた作業を進める中、インドが交渉にとどまるかが焦点となっていました。

日本は、近年、RCEPのような大型のEPA経済連携協定によって、貿易や投資の拡大を目指してきました。

日本にとって初めてのEPAシンガポールインドネシアなどASEAN=東アジア諸国連合との協定で2010年までにすべての国との間で発効しました。

また、TPP=環太平洋パートナーシップ協定は、アメリカが離脱したもののオーストラリアやカナダなど11か国の間で2年前に発効し、去年は、EUヨーロッパ連合とのEPAも始まりました。

さらにEUからの離脱に伴うイギリスとの新たなEPAも来年1月の発効に向けて、国会で審議が行われています。

こうした中、ASEANに日本の最大の貿易相手国の中国、3番目の韓国などを加えたRCEP=東アジア地域包括的経済連携は現在交渉中のものとしては最後の大型EPAでした。

今回の合意により日本の貿易額のうち、関税の撤廃や引き下げが適用される相手国・地域の占める割合は現状の5割からおよそ8割まで広がることになります。

#テレビ

#反中国#対中露戦#習近平伏魔殿体制=旧体制

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タイではことし7月以降、プラユット首相の辞任や王制の改革を求める大規模なデモが相次いでいて14日も、バンコク中心部の広場に若者が集まり、抗議活動が行われました。

抗議活動が続くなか、デモ隊の近くをワチラロンコン国王の車列が通りかかると、若者たちは主催者の呼びかけのもと車列に背を向け、3本の指を立てるポーズをとりました。

このポーズは強権的な政治に対する抵抗のシンボルとして使用され、先月デモ隊が王室関係者の車列に示したことがありましたが、国王の車列に対しては異例で、これまでタブー視されてきた王制に対する批判が一段と強まっています。

デモに参加した26歳の女性は「人々が不満を抱いていることを知ってほしい。デモは長期化しているのに政府は何もしてくれておらず、要求が実現するまでデモを続けたい」と話していました。

一方で、デモを続ける若者に対抗して王室を支持する人たちが集会を相次いで開催していて、国民の間で対立が深まることも懸念されます。

ミャンマー選挙管理委員会が14日夜、発表した開票結果によりますと、選挙で争われた議会の上院と下院の合わせて476議席のうち、▽NLDが獲得したのは396議席、▽旧軍事政権の流れをくむ最大野党のUSDP=連邦団結発展党は33議席、▽さまざまな少数民族の政党は合わせて47議席となりました。

NLDが獲得した割合は全体の83%を占め、半世紀以上に及んだ軍主導の政治を終わらせ、歴史的な政権交代を果たした前回5年前の選挙をさらに上回る圧勝となり、強固な政権基盤を築きました。

スー・チー氏は支持者に感謝を伝えるメッセージを出していますが、これまでのところ、明確な勝利宣言はしていません。

一方でNLDは、さまざまな少数民族政党に協力を呼びかける声明を発し、政権2期目に向けた足場固めを早くも始めています。

ミャンマーの新政権は、来年3月に発足する見通しです。

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#東南アジア

アメリカ大統領選挙で、民主党のバイデン氏が勝利を宣言して1週間がたった14日、ワシントン中心部の広場で、トランプ大統領の支持者による大規模な集会が開かれました。

開始2時間ほど前には、トランプ大統領を乗せた車が近くを通り過ぎ、支持者らが歓声を上げる一幕もありました。

集会には1万人以上が参加したと見られ、「選挙結果を盗むのはやめろ」などと声をあげ、選挙で不正が行われたとして、トランプ陣営が続ける法廷闘争への支持を示していました。

東部ニュージャージー州から訪れた男性は「来月、結果が確定するまで選挙は終わらない。私たちは不正のない、公正な選挙を望んでいるだけだ」と話していました。

一方、近くでは敗北を認めないトランプ大統領に抗議する集会も開かれ、100人以上が「選挙で負けたんだ、帰れ」などと声を上げたのに対し、大統領の支持者たちが「あと4年」などと応じ、衝突や混乱を防ぐため警察官が間に入るなど、厳戒態勢が敷かれました。

トランプ大統領に抗議する男性はトランプ大統領は早く負けを認めてホワイトハウスから去るべきだ」と話していました。

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ウィスコンシン州ケノーシャで起こった事件の時に何回か紹介しましたが、米国のルシアン・L・ウッド氏はアトランタ爆破事件も携わった名弁護士です...

アメリカ大統領選挙をめぐる混乱が続く中、ワシントン中心部の広場では14日、トランプ大統領の支持者による大規模な集会が開かれました。

集会には1万人を超える人が参加し、「選挙結果を盗むのはやめろ」などと声をあげながら、2.5キロほど離れた連邦最高裁判所まで行進しました。

参加者の中には、過激な極右団体、「プラウドボーイズ」のメンバーや防弾チョッキやヘルメットを身につけた人の姿も多く見られました。

トランプ大統領はこの日、ゴルフをして過ごしましたが、集会が始まる2時間ほど前には会場近くを車で通り過ぎたほか、ツイッターに、広場を埋め尽くした支持者の映像を引用して「彼らは不正で腐敗した選挙を許さない」と投稿し、選挙での敗北を認めない姿勢を改めて強調しました。

一方、会場近くでは、敗北を認めないトランプ大統領に抗議する集会も開かれ、参加者の一部が大統領の支持者との間でつかみあいになる場面もあり、警察によりますとこれまでに10人が逮捕されたということです。

1週間前の勝利宣言以降、バイデン前副大統領が政権移行に向けた動きを加速させる中で、多くのトランプ支持者が選挙の不正を主張してバイデン氏を勝者と認めない姿勢を示したことで、アメリカで深まる分断が改めて浮き彫りになっています。

14日、ゴルフをして過ごしたトランプ大統領は、集会の会場の近くを車で通り過ぎ、支持者たちに応えました。

撮影された映像では、支持者たちが「USA」などと歓声を上げて迎えるなか、トランプ大統領が窓越しに親指を立てたり両手を上げたりして笑顔で応じる様子が確認できます。

トランプ大統領は前日の13日、今回の集会についてツイッターに、「ものすごい支援に心温まる。立ち寄ってあいさつしたい」と投稿していました。

アメリカ大統領選挙をめぐる混乱が続く中、ワシントン中心部の広場では14日、トランプ大統領の支持者による大規模な集会が開かれ、1万人を超える人が選挙で不正が行われたと主張しました。

これに対して会場近くでは、敗北を認めないトランプ大統領に抗議する集会も開かれました。

その後、双方の間で衝突が起き、男性が刃物で背中を刺されて重傷となっているほか、警戒にあたっていた警察官2人もけがをしました。

インターネット上には、屋外のレストランで大統領の支持者たちの席に花火が投げ込まれる様子や、大統領を支持する過激な極右団体「プラウドボーイズ」のメンバーらがもみ合いになっている様子などが相次いで投稿されていて、これまでに少なくとも20人が逮捕されたということです。

一方、トランプ大統領ツイッターで、支持者の男性が何者かに殴られて倒れ込む様子の映像を引用した上で、「過激な左派のゴミがこのようなことをしている」と対立をあおるような投稿をしています。

大統領選挙をめぐって対立が深まる中で衝突が起きたことで、現地では緊張が高まっています。

plaza.rakuten.co.jp

 欧米の支配者は「リセット」に向かって動き始めている。彼らにとってドナルド・トランプ米大統領はすでに「過去の人」なのだろう。そうした認識のためなのか、トランプと対立していたひとりである​シリア特使のジェームズ・ジェフリー​はシリアを不法占拠しているアメリカ軍について語り、話題になっている。

 シリアに侵入しているアメリカ軍の数は一般に言われているよりかなり多く、トランプも騙されていたという。トランプが戦争に消極的だと言うことは知られていたようで、​2016年8月、共和党の国家安全保障関係者が彼を「リスク」だと批判​していた。

#米大統領

ニューヨークのマンハッタン中心部にあるロックフェラーセンターでは、80年以上前から毎年、巨大なクリスマスツリーが飾られ、冬の風物詩となってきました。

ことしもクリスマスまで1か月余りとなった14日、ニューヨーク州の住宅の庭に植えられていた、高さ22メートルに及ぶトウヒの木がクレーンを使って飾られると、訪れた人たちは携帯電話で一斉に写真を撮っていました。

ニューヨークでは、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、全米で最大規模のハロウィーンのパレードや、100年近く続いてきた感謝祭のパレードなど、さまざまな催しが中止される異例の年となっています。

毎年大勢の見物客が集まるクリスマスツリーの点灯式が行われるかどうかは、これまでのところ明らかになっていませんが、ことしもツリーが飾られたことに市民からは喜びの声が聞かれました。

地元の女性は、「ことしもこの場所でツリーが見られて、とても幸せな気持ちになりました。ツリーは、みんなを楽しませてくれるだけでなく、元気にしてくれます」と話していました。

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ニューヨーク・タイムズが13日、複数の当局者の話として、伝えたところによりますと、殺害されたのは、アルカイダのナンバー2とされ、アブ・ムハンマド・マスリの名前で知られるアブドラ被告です。

アブドラ被告はことし8月、イランの首都テヘランの路上でアメリカからの依頼を受けたイスラエル工作員2人から銃撃を受けて死亡したとしています。

アブドラ被告は、1998年にケニアタンザニアで起きたアメリカ大使館爆破事件に関与した罪で、アメリカで起訴されていました。

記事では、イスラムシーア派のイランが、スンニ派が主体のアルカイダの幹部を国内に留め置くことで、イランでのアルカイダの活動を抑え込むねらいがあったとする専門家の見方を伝えています。

これに対して、イラン外務省のハティーブザーデ報道官は、14日、アルカイダのメンバーは国内に存在しない」と否定したうえで、「メディアは、アメリカの高官が作ったハリウッドのようなシナリオにだまされるべきではない」とするコメントを発表しました。

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#中東

新型コロナウイルスの感染対策の一環として、大手銀行の間では、顧客が窓口で行員と接することなくサービスを受けられる「非接触型」の店舗に切り替えようという動きが広がっています。

このうち、みずほ銀行川崎市武蔵小杉駅近くにオープンさせた新店舗は、従来の窓口カウンターがないのが特徴です。

代わりに置かれているのが14台のタブレット端末で、▽銀行口座の開設や、▽ATMの限度額を超える入出金、それに▽税金の支払いなどが、この端末を通じてできるようになっています。

年内にも全国すべての店舗に端末を導入する計画で、みずほフィナンシャルグループの白石志郎リテール・事業法人業務部長は、「記入用紙や印鑑が必要なくなるため、サービスをスピーディーに提供できると考えています。時代に合った店舗に変えていきたい」と話していました。

大手銀行の間では、▽三井住友銀行が窓口で現金の受け渡しをしない店舗を順次増やす方針のほか、▽三菱UFJ銀行も12月からすべての店舗で来店の予約を受け付けるようにするなど、新型コロナウイルスの感染対策として、店舗を「非接触型」に切り替えようという動きが広がっています。

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#食事#レシピ

blog.goo.ne.jp

池上駅から「HITONAMI」までは徒歩10分ほど。

池上本門寺

本門寺の正式名称は長栄山本門寺である。

「hana coffee」

夕食は豚シャブ。

#食事#おやつ


【モトブログ】ホンダCBR250RRを借りたら楽しすぎた!【レンタル】


オートバイ女子部がツーリングから戻ってきました! ダラダラしゃべります !

37:36

#レッグバッグ

通常の感覚では、そうだけれども、
この頃の「若い女子は「お父さんみたいな年齢のおじさんが、自分を恋愛対象や性的対象として見ない」と、
気の強い人はすごく怒るし、そうでない人は傷つく。

#籃籃#短今

坂田藤十郎さんは昭和6年に二代目中村鴈治郎の長男として京都市で生まれ、9歳の時に中村扇雀の名前で初舞台を踏み、平成2年には、三代目中村鴈治郎を襲名し、上方歌舞伎特有のしっとりとした演技「和事(わごと)」の第一人者として活躍しました。

平成17年には、231年ぶりに上方歌舞伎の大名跡坂田藤十郎を復活させて四代目を襲名し、近松門左衛門の作品を中心に舞台を務めてきたほか、アメリカやロシア、中国など海外公演にも熱心に取り組み、歌舞伎を世界に広く紹介しました。

平成6年に人間国宝に認定されたほか、平成15年に文化功労者に選ばれ、平成21年には文化勲章を受章しています。

藤十郎さんは去年12月に京都の南座での顔見世興行、「祇園祭礼信仰記 金閣寺」が最後の舞台となり、ことしは舞台にあがっていませんでした。

松竹によりますと、藤十郎さんは12日、都内の病院で老衰のため亡くなりました。88歳でした。

葬儀は親族のみで執り行ったということで、お別れの会などの予定は決まっていないということです。

坂田藤十郎さんが亡くなったことについて、妻の扇千景さんはNHKの取材に対し、「まるで眠っているように亡くなりました。10歳から去年12月の87歳まで一度も休演したことがなく、役者のために生まれて役者として死ぬ生涯でした。『曽根崎心中』という当たり芸もでき、いろいろな役をやらせていただき、本当にありがたいことでした。昭和33年に結婚し、62年間になりますが、怒ることがなく、人の悪口も言わず、“芝居一筋”で、ほかのことは何もできない人でした。役者のために生まれた人と結婚しましたが、私が政界に30年いた間もとても協力してくれました。こうして2人で62年もいられたことは、本当に縁だと思います」と話していました。

坂田藤十郎さんの長男、中村鴈治郎さんは「最後まで若々しく、ずっとスターでいたのを目の前で体感させてくれた人です。そしてそのままスターのままで逝ってしまいました。家の中でも親父という印象ではなかったです。世界中で一番お袋が親父のファンだったと思います」とコメントしています。

また次男の中村扇雀さんは「子どものころから父はスター街道をひた走っていました。そして自分の芸のことにはとても厳しく、自分の芸を高めていくことに人生をささげていて、その背中をずっと見続けてきました。『一生青春』をモットーに、息子も孫もライバルに思っている人でした。そして最期は苦しむことなく安らかに眠りました」とコメントしています。

同じ上方の歌舞伎俳優として共演するなど親交が深かった片岡仁左衛門さんは「私も先ほど悲報を知ったばかりでことばが出てきません。われわれのような関西出身の歌舞伎俳優の旗頭で心の支えのような存在でしたので、非常にさみしく、残念に思います」とコメントしました。

そのうえで「大阪のにおいというのが体に染みついている方で、昔のすばらしい大先輩の芸を盗んで吸収し、アレンジした独特の雰囲気はわれわれにはまねできないものだった。これまで兄さんが頑張ってくれたように、関西歌舞伎の芸を残すことに尽力していきたい」と話していました。

歌舞伎などの古典演劇の評論家で、坂田藤十郎さんと個人的な交流もあった水落潔さんは、「突然で悲報で本当に驚きました。その芸の幅の広さと、独自の世界を切り開いていくことでは、ほかに例を見ない歌舞伎俳優だった。やるべき仕事はすべてやり終え、思い残すことはなかったのではないかと思います」と話しています。

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結果的に織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。

信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。

この戦いには敗れたがこの時点では浅井・朝倉連合軍にはまだ余力は残っており、近江、越前周辺では比叡山の僧兵衆や石山本願寺一向一揆と手を結び、湖西の志賀郡などで攻防戦が繰り返された(志賀の陣)。これらの戦いでは織田方の被害も軽微なものとはいえず、信長の実弟織田信治をはじめ森可成坂井政尚などの諸将を失った。

信長は浅井・朝倉を支持する比叡山を焼き討ちするなど、周辺敵勢力の掃討に打って出た。また、軍事力だけでは攻略は困難と判断した信長は諜略によって浅井家の内部分裂を謀った。その代表例が姉川の合戦で最も武功をあげた磯野員昌の離間である。姉川の合戦により領国が南北に分断されてしまっていたため犬上郡佐和山城を守備する磯野員昌らは孤立してしまい物資の補給すらままならない状態であった。そこに目をつけた秀吉が浅井家家中に員昌内通の風説を流し、長政らに員昌に対する疑念をもたせることに成功、長政は再三にわたる員昌からの物資補給の要請をすべて拒絶し、兵糧が残り少なくなった員昌はついに織田方に投降し浅井滅亡の流れを決定付けることとなった。次第に弱体化していった浅井・朝倉両氏は大局的な戦略に方向転換し甲斐の武田信玄本願寺顕如らと組み信長包囲網を形成していく事になる。

上坂神社

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16日、近江で浅井・朝倉連合軍が信長の背後を突くべく進軍を開始している。この報せを受けた宇佐山城主・森可成は野府城主・織田信治、青地茂綱らと共に交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖、連合軍の南進妨害を試みる。そして16日に緒戦においては連合軍を撃退する。

しかし、顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わると、形勢は逆転。

続いて浅井・朝倉連合軍は宇佐山城への攻城戦に移行。守備側は1000人、攻城側は3万人と劣勢であったが、可成の重臣各務元正、武藤兼友、肥田直勝、林通安らが奮闘して持ちこたえた。連合軍は城攻めを諦め、21日に逢坂から京都の山科方面まで出軍してきた。

柴田勝家が信長の本陣に出向き、京都に戻るように進言した。

23日、信長は全部隊に撤退命令を出し、足利義昭と共に帰京。これを知った浅井・朝倉連合軍は比叡山に後退。翌24日、信長は逢坂を越え、近江へと向かった。戦いは「志賀の陣」へと続く。

三人衆軍には27日、篠原長房が中心となり、細川真之、三好長治、十河存保ら、阿波・讃岐の兵2万からなる大援軍が兵庫浦に上陸、翌28日、織田軍に属していた瓦林城、越水城の城主・瓦林三河守を討ち取り、10月1日野田城・福島城に入城する。ここに至って信長は、三人衆、本願寺浅井長政朝倉義景六角義賢ら連合軍との和睦を模索する事になる。義昭は三人衆に対しては敵対心があったようではあるが、顕如に対しては開戦当初から一貫して和平を求めており、信長はこれを利用し朝廷工作を実施し、正親町天皇より「講和斡旋を希望す」という言を得て、11月30日に各陣営で話し合いが行われ、12月14日に和睦が成立し、長政、義景、六角連合軍も撤兵する。この時、三人衆と篠原長房は、旧敵であった三好義継、松永久秀とも和睦しており、その後、両者は共闘することとなった。この戦い以降、信長は浅井・朝倉・六角連合軍の討伐にしばらく忙殺される事になる。

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元亀元年(1570年)9月16日から12月17日にかけて発生した織田信長浅井長政朝倉義景比叡山延暦寺の戦いを言う。

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛し、義昭を征夷大将軍に就けることに成功した。これにより、室町幕府は一時的に再興されることになった。将軍の後見人という立場となった信長は、かねてより良好な関係ではなかった朝倉義景との対立を深め、元亀元年(1570年)4月20日に義景の領国たる越前へ侵攻したが、盟友・義弟の浅井長政が朝倉方についたことにより撤退(金ヶ崎の戦い)。だが、約2ヶ月後の6月28日に発生した姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍に打撃を与えることに成功した。

一方、足利義昭とかねてより敵対していた三好三人衆は8月20日になって摂津の野田城、福島城に拠って挙兵した。信長はこの挙兵に対して天王寺に出陣し、付け城を築くと共に香西佳清と三好政勝を寝返らせて有利に戦いを進めていた。しかし、その途中の9月14日になって石山本願寺法主顕如が蜂起したことにより、戦況は予断を許さなくなり、信長は摂津戦線に釘付けにされることになった。この戦いを野田城・福島城の戦いと言う。

こうして摂津戦線で信長が釘付けとなっていることを奇貨として、浅井長政朝倉義景は京都に向けて押し出すべく、手薄な琵琶湖西岸を南下したことにより、志賀の陣は始まった。

しかし、織田方の防衛線を破る事には成功した浅井・朝倉勢は粘る宇佐山城攻略を諦め大津へ進軍。21日には醍醐、山科まで侵攻し、京都まで迫った。

22日になって、信長のもとに「浅井・朝倉勢が織田方の防衛線を突破し京都に迫っている」という知らせが届いた。信長は京が浅井・朝倉勢の手に落ちた時の政治的影響を考え、摂津戦線から撤退することを決断した。翌23日には柴田勝家和田惟政を殿とし、京都に撤退した。途中、淀川の下流の江口で、一揆勢が蜂起して船を隠してしまったが、信長は川を上流から下流まで見て回り、浅い部分を渡るよう指示し、無事に渡ることができた。その日は本能寺に宿泊したようである。

一方、信長が転進してきたことを知った浅井・朝倉勢は比叡山へ後退。24日、信長は逢坂を越え、坂本まで来て比叡山を包囲した。信長は比叡山延暦寺に対して「織田方につくならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と通告したが[2]、延暦寺からの返事はなかった。

浅井・朝倉軍は延暦寺の支援のもと、比叡山に籠城することになった。

信長が比叡山包囲のため、身動きがとれなくなっていることを知った各地の反織田勢力はこの機に一気に挙兵することになった。

11月末になり、包囲は2ヶ月に及んだが依然として比叡山に籠る浅井・朝倉軍は降伏する様子を見せなかった。しかし、信長は反織田の勢力が連なるのを問題視し、11月30日、朝廷と足利義昭を動かして講和を画策した。一方の義景も豪雪により比叡山と本国の越前の連絡が断たれるという問題があり、継戦に不安を持っていた。この為、12月13日になって朝廷と義昭の仲介を受け入れ、信長との講和に同意した。翌14日、織田軍は勢田まで撤退し、浅井・朝倉軍はほぼ3ヶ月ぶりに高島を通って帰国、ここに志賀の陣は終了した。

12月に信長が義景に送った起請文には「上意のため」という足利義昭の関与を示す文言はあるが、天皇を示す文言は見当たらない。これは勅命の対象が延暦寺だけに限定されていたといえる。また織田と朝倉の和睦にもかかわらず、延暦寺、浅井、本願寺についての条項が含まれており、元亀争乱での反信長陣営の領袖が義景であったことを示している。

信長は拠点は守りきったものの、当初の目的である野田・福島攻めを中断された上、弟の信治・信興や家臣の森可成坂井政尚といった武将を失う結果に終わった。一方の義景は、信長を追い込みながら、豪雪のために撤退することになり、領土を得る事はできなかった。また、延暦寺はこの戦いにおいて信長の通告を無視して浅井・朝倉方についたことが翌年の比叡山焼き討ちにつながることになる。なお、近江守護であった六角義賢が近江の守護所である観音寺城を奪還できないまま信長と和睦したことで、大名としての六角氏は事実上滅亡したとする評価もある(六角義賢は以後も反信長の兵を挙げるがその勢力は程なく消滅する)。

この戦いの隙をついて各地で反織田の挙兵があったこと、そして足利義昭が信長の影響下から脱そうとしてこれらの勢力を糾合し信長包囲網を敷いたことにより、以後信長はこの包囲網と戦う事を余儀なくされた。この状況は元亀4年(1573年)4月に包囲網の一角を担った武田信玄が病死するまで続くことになる。

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