かつて「フランス現代思想」や「ポスト構造主義」などの表現で括られた哲
学・思想の営為は、近年ではどのように受け止められているだろうか。ロラ
ン・バルト、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズら亡き後、なお旺盛な
思索活動をつづけていたジャック・デリダも2004年に没し、彼らの名前に一時
期ほどのアクチュアリティを感じなくなったのは確かである。流行の過ぎ去っ
た思想、といっては誤解があるかもしれないが、書店の人文書コーナーを見て
も、現在の哲学・思想棚の主流は「フランス現代思想」ではない。バルトは最
近、晩年のコレージュ・ド・フランスでの講義ノートが、そしてデリダも遺さ
れた多くの著書が精力的に刊行されているが、それらの本に対する注目の度合
いなどを見ても、以前ほどの影響力を伴っていないのが実情である。
私がはじめて哲学を学び、彼らに出会ったとき、フーコーはもちろん、ドゥ
ルーズもこの世にはいなかった。そのような意味で、私は彼らが同時代の思想
として受容されていた時代を知らないし、その雰囲気も知らない。ポスト・モ
ダンもニュー・アカデミズムもなかば過去のものとして認識されていた時期に、
特定の批評家の言説を通じてフーコーの哲学に触れるのではなく、自身の関心
に沿って直接彼の著作を読み、共感を覚え、今もまだその裾野をめぐるばかり
だが、しぶとく読みつづけている。彼らの思想を同時代の空気として感じ取っ
た人たちをうらやましくも思う一方で、空気を知らないからこそ、適度な距離
をおいて冷静に見えてくる眺めもあるのではないか、と私自身は感じるのであ
る。哲学・思想を取り巻く現状をふまえ、『シネマ』や『フーコー・コレクショ
ン』の刊行を受けて、これらの本が新しい読者と出会い、かつての「フランス
現代思想」というフィルターを通してではなく、もっと異なる側面からドゥル
ーズやフーコーの「哲学」に向き合う可能性がより開けてくれることを願って
やまない。彼らの思想の営為は今なお、私たちを終わることのない思考の旅へ
いざなう力強さと美しさ、そして光彩を放っている。(浩)