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田坂さんの話を聴いて、chanmさんが騙されている(例の、相手が言って欲しいことを言ってやって、してやったりという件)のを思い出した。
頭の中が整理されておらず、雑駁な知識を羅列して、論理性が欠如している、崩れた文章を書く人に注意。
ナベツネ連立工作事件の参考にもなるので引用しておく。

『仙境異聞・勝五郎再生記聞』
P278

寅吉云はく、悪魔どもは・・・人々の慢心怠慢を見込みて其の心に入り、種々の禍難を生じて其の心を邪にまげしめ、仏菩薩とも美男美女ともなり、地獄極楽、其の外何によらず、人々の好む所に従ひて、その形象をも現してたぶらかし、悉く我が伴類に引き入れ、世を我が儘にせむと計らふ物なり。

P339

寅吉云はく、すべて学問といふものは、魔道に引込まるゝ事にてまづは宜からぬ事なり。其の故は学問するほど善き事は無かれども、真の道理の至極まで学び至る人はなく、大概は生学問をして、書物を沢山に知りて居る事を鼻にかけて、書物を知らぬ人を見下し、神はなき物じやの、仙人天狗はなき物じやの、怪しき事はないの、然やうの道理はない事じやなど云ひて我意を張るが、これみな生学問の高慢にて心狭き故なり。書物に記して有る事にも、直に見ては違ひて居ることはいくらもあり。

『日本精神通義』
P236

西洋流に考えますと「むすび」ということは、平面的に相対して存在するものを結合することでありますが、我らのいう「むすび」は霊を産む、産霊という文字を当て嵌めているように、これは相対するものを統一して、そうしてより高次な価値に進むことであります。・・・例えば小作争議ならば・・・歩み寄らせること、そういうことを中庸というならば、それは相対するものを平面的に結ぶだけのこと、いわゆる妥協に過ぎません。・・・中庸とは相対するものを結んで、総合統一して、より高い価値的道程に進めることでありますから、地主側と小作人側とで申せば、両方のいうことをよく聴いて、その善悪正邪を批判し、そうして小作人側が正しければ小作人の主張を通してやり、地主側が正しければ地主側の主張を通してやらなければならぬ。そこをできるだけ円満正大に解決するのが中庸であります。

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