https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

ハイビジョン特集 シリーズNIPPONの巨人「岡本太郎」

「進歩と調和」というのはこれ逆だと思うんですよね。人間、少しも進歩してないですよ。科学的に、工業的に、産業的に、様々に見て進歩してるかもしれないけども、人間的にはみんな虚しくなってますよ。機械の奴隷になってますよ。ね、人間が機械を作ったんだから、人間が機械の王にならないと、機械が奴隷でなければならないのに、機械がどんどん動き出して・・・生身で生きていられないわけね。・・・それから、「調和」というとね、もう全部機械で生産されたような計算ずくのものばっかりが並ぶだろう。ね。そうじゃない。それとは正反対のものをバーンとぶつけてやろうと。だから、僕は「調和」というのは、ね、ぶつかり合うことが調和なんであって、正反対のものをバンバーンとぶつかると両方が開くと

経済発展とか開発が無条件にプラスであり、幸福をもたらすとかんがえられた時代はもう終わっているのだ。
あくせくと働きとおしてGNPをあげ、いまその結果の矛盾にぶつかって、絶望している。
俗にいう「生活の豊かさ」、しかし、その反面、失ったものがいかに大きいか。

人間本位的な考えをここで一遍解消して、つまり、我々の不幸というのは、すべて人類の卑しさとか不幸というのは、人間という意識があるから人間が不幸で汚く卑しくなってくる

原始時代の人間というのは本当に生身で生きてた。自分の身体全体、精神全体で自然とぶつかり合いながら自然を活かし、己れ自身を活かしたわけ。それがいま無くなって、今や自然なんて別に大して評価されるわけでもない。社会システム、生産、効能なんてもの、それから・・・だけが問題になって進歩になってしまって

ただの抽象であることよりも、現実とそれから抽象というものとの二つのものの裂かれた中に人間の存在はあるんで、ただ抽象的である、ただ具象的であるんでなく、抽象と現実のぶつかり合い、引き裂かれたところに人間の本当の存在があるっていうんで、私は抽象的であると同時に具象的な絵を描き出した

民俗学というのは、すでに時代と空間を超えたその場所にあるものからずぅーと存在というものを掴み取る。だから、自分の主観と、向こうの客観的なものとのぶつかったところに本当の人間の存在があるというわけで僕は民俗学をやった。

自分が捨て去ったつもりでいた「日本」が、大きく目の前に浮かび上がってきた。確かに精神的に閉ざされた場所かもしれない。しかし、そこでこそ自分を賭けよう。

上野のねぇ、博物館にね、・・・見に行ったんですよ。・・・その隅の方にねぇ、あっと思うようなものがあった。「何だろう!」、ガタガタッとこう惹きつけられてね、ひょっと見たら、縄文土器と書いてあるんですよ。へぇ、「縄文土器」ってこんなもんあるのかと、それでそれが日本のものだとわかった。日本の過去にねぇ、こんなものがあるとは全然知らなかった。・・・縄文なんて名前も聞いていない。吃驚しちゃって、「ああっ!」と思って感動してね、それで、僕は家に帰ってから原稿を書いたんだ。

ホントに全身を賭け、自然に挑み、自然と闘い、そして、自然と融け合い、そして、自然を逆に活かすという、ああいう一体になる、自然と人間が一体になるところに本当のシンセイカン(?)というものがあって、自然即人間、人間即自然だという、そして、・・・血を流しても全身を爆発させても生きていく。それが、文化であり、芸術であり、生き方であるとこう僕は思うわけですね。

私はいつも言ってるんだけどもね、その伝統、昔あったものをそのままね繰り返す必要はないんだと。新しく活かしていかないと。それから伝統っていうものは新しくならなきゃ。その時の情熱、生きる気持ちをそこにバーッとぶつけて前にやったものをひっくり返してみる。そうすると本当の伝統になる。

僕がなぜ壁画が造りたいかというと、一般大衆に誰でも見られるものであってね・・・。

大いに悪口言われた方がいいんだと、俺の自説でね、本当の仕事する人は誹謗され悪口言われ社会と闘わないといけないんだ、と言ってプッシュした

岡本敏子さん
負けてなかったから、今あるんじゃない? それは、絶対負けないぞ! 原爆が凄い禍々しい力で炸裂したとしたら、それと同じもっと凄いエネルギーで人間の力、誇り。悲劇だけどそれが美しいのよ。それが同時に炸裂して「明日の神話」が生まれてるんだぞ!って意味よ。