しかしながら、ハイエクの議論を、政治権力の不完全性を指摘するとともにその肥大の危険性を警戒し、社会の自生的性格を強調する議論としてのみ受け止めることは、もはや社会主義なき二十一世紀のグローバル化の時代…において、危険な帰結をもたらす恐れがあるように思われてならない。
『ハイエクの政治思想−市場秩序にひそむ人間の苦境』について(2)
社会秩序の形成・維持のために政治権力の働きを(あまり)必要としない、という議論を展開するためには、大なり小なり、楽観的な人間観が前提とされていなければならない。そうであって初めて、「自由に任せておいても大丈夫」と安心できるからである。しかしながら、ハイエクをつぶさに読むとき、その諸著作から浮かび上がってくるのは、比較的楽観的な人間観から、かなり悲観的な人間観へのハイエクの変遷なのである。
ここから彼は、民主制を「平和的な政権交代を可能にする唯一の方法」としてその存在意義を認めつつも、その民主制の実際の運営方法としては、かなりエリート主義的な方式を提唱することになったのであった。
『ハイエクの政治思想−市場秩序にひそむ人間の苦境』について(3)
もしもハイエクがユートピアとしての社会主義・全体主義の「魅力」に対抗して、自由主義を現代的に再生しようとしていたのであれば、彼はサン=シモン主義のみならず、マルクスの共産主義に対しても、もっと真剣に向き合うべきであっただろう。というのも、本書の終章で論じたように、社会主義・共産主義なきあとの自由主義あるいは資本主義の苦境とは、利益誘導型政治を打破するために復権されたはずの市場原理が、むしろその本来の姿とは似て非なる?バブル経済?へと、すなわちあまりにも赤裸々なエゴイズム・貨幣欲に突き動かされた非生産的な投機経済へと変質させられていることだったからである。
私が理解するかぎり、著者の立場は、新保守主義の国内政策理念を支持するもので、それは例えば、I・クリストルのようなネオコン論者のハイエク批判を基本的に支持する方向で、ハイエクの思想を実現する方向性をさぐるものであろう。ハイエクにおける道徳性やエトスを最大限に読みこみ、その読みこみを増幅するかたちでハイエクを超えようとするならば、おそらく現代の新保守主義に至るように思われる。
私は拙著『帝国の条件』において、現代のグローバル世界を「善き帝国」へ再編するための具体的なビジョンを、ハイエクとマルクスの思想的融合によって試みているので、はたして山中氏が私のビジョンにどのような意見を示されるのかを、お伺いしたいと思う。
「自由の思想的基盤をハイエクを超えてわれわれ自身が整えていかねばならない」というのが、私の最も言いたかったことである。その思想的基盤を欠いたまま、わが国が性急に自由化を進めることに、私は反対したのであった。
- 作者: 山中優
- 出版社/メーカー: 勁草書房
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