『遠羅天釜』
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真の無我に契当しようと思うならば、何と言っても、まず懸崖に手を撤(さっ)して絶後に再び蘇らねばならぬ。そこで初めて、常・楽・我・浄の四徳をそなえた真我を発見するであろう。懸崖に手を撤するとはどういうことか。誰も踏み入らぬ山中で道に迷い、底のないような高い断崖に出た。絶壁にはすべりやすい苔が生え、足の踏み場もない。進むことも退くこともできぬ。ただ頼むところはわずかに生えている蔦葛(くずかずら)。これにすがって、ようやくしばらく命を助かった。しかし、手を離せば、たちまち真っ逆さまである。
修行もこのようにして進めて行かねばならぬ。一則の公案に取り組んでいけば、やがて思う心も失われ、からりとして何もなくなり、さながら万仞の断崖に立たされたようになる。絶体絶命というところまで推し究めていって、そこで忽然として、公案も我ももろともに打失する。これを懸崖に手を撤する時節と言う。その死にきったところから、今度は豁然として息を吹き返すならば、その当人でなければ分からぬ大歓喜を味わうであろう。自ら水を飲んでみて、初めて冷たいかぬるいかが分かるのだ。この体験を、あるいは往生と名づけ、また見性とも言うのである。
『峠』とかを読んで、無我無私大我大欲の大人物になろうとすると、一旦世間から離れていかなければならず、辛い。それを貫いていくと、頭の線が切れたようになり、到々死ぬのかと思う。色が変わり、意識が内に入っていくから、そのままぷっつりと意識を失うと思う。そうすると前に突っ伏して倒れると思うから、そっと端座する。しかし、死なない。呼吸は苦しくないし、脈をとっても平常通り。そのとき手のひらを見て「あっ」と思う。はっきり見えるのだ。「もしや、これは」と思っていると・・・。ということ。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20080118#1200624793