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ニュースを斬る シリーズ――ポスト・サブプライム(1) 人類はもっと謙虚になれ、もはや技術や資本も支配できない

 20世紀の半ばぐらいまでは、何となく人間が技術をコントロールしていると言えたような気がします。しかし、IT(情報技術)化みたいなものが進んできてからは、技術が一種、自己運動を起こして、人間がそれに操られているような気がします。

 昔から、科学は人間の理性が生み出し、その科学を応用して技術になり、技術文明が成立したのだから、技術は科学によってコントロールでき、科学は理性によってコントロールできると考えられてきました。

 しかし、どうもそうではない。むしろ技術が一種、自己運動を起こして、自分の手先として科学を成立させ、その科学が成立するために人間の理性を利用しているのではないか。

 人間はもう少し謙虚になり、「恐れる」という気持ちを持つ必要があるような気がします。自分たちの手に負えないものがあると認め、そして理性というものを、あまり信用しない方がいい。

 近代、17世紀あたりから、理性こそが人間の核心であり、理性を養い、育んでいかなくてはならない。それを否定するのは非合理主義となってきました。こうした理性万能主義でやってきた結果が、今日の技術文明をつくりだしたのですが、僕は自分たちの理性などは大したものではなく、技術や資本の自己運動を制御できないと考える方が無事なように思えます。

今日の技術文明を生むことになった西洋文化は、明らかに自然を制作の材料にして、生きた自然なんていうものから離反するような形で、文化を形成してきました。古代の日本とかギリシャでは、自然とは生きたものであるという自然観を持っていました。

 ハイデガーがこんなに大げさなことを考えることができたのは、ニーチェが先駆者としていたからです。ニーチェは確かに古代ギリシャから19世紀までの西洋文化の形成の仕方が、これでよかったのかと、かなり根本的に反省した人です。

 実際に20世紀に入ってからほかの哲学者たちも、ニーチェハイデガーに学んでそういう思索、つまり西洋人が自分たちの西洋文化の形成が間違えていたと反省し始めたわけです。では、間違えていたとすれば、ほかにどういう可能性があったかを考えようとした。

 その段取りとして、人間存在の分析、それから人間が自分を時間化する仕組みみたいなものを問題にした。

 技術文明を生み出した、つまり西洋文化の根底にあったのは、自分自身の死から目を背けて「自分は永久に生きるのだ」と言わんばかりの、そういう生き方をしてきた人間の存在了解なのだと。それに基づいて西洋文化というやつは形成され、その帰結として技術文明が成立してきた。

 これが、行き止まりに来ている。それならばこの生き方を、人間が自分の生き方を転換して、もう一回、自分自身の死を見つめるような、生き方に対応するということを成ると見るような、存在了解に基づいた新しい存在概念を形成し、そして文化を形成すれば、大きな文化の展開があるとしたのです。

古代ギリシャソクラテス時代の思想家たちも、やはりphysis(フィシス)というものは、自然というものはおのずから生成する、成るものなんだと。 phyenという言葉からphysisという言葉がきて、そのphyenというのは、花が開くとか、草が萌え出るとか、ですから植物的な生成になるものなのですね。