齋藤孝の「3分間」アカデミー 不安は無用 世界や時代が変わっても求められる能力は変わらない
かの哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」にしたがえば、人間は心が身体を支えているように受け取れる。しかし私に言わせれば、これは逆だ。身体があって初めて心は落ち着きを得ることができるのである。
ここでいう「身体」とは、たんに存在する個体という意味ではない。他の身体を含めた周囲から情報をキャッチし、共感し、饗応するのも身体なら、人とのつながりを求め、自分の意思を周囲に伝えようとするのも身体だ。外部に対し、きわめて開かれた器官なのである。
これは違ってて、心は身体に影響を与えるし、身体は心に影響を与える。
心が弱い人や頭ばっかり使ってる人にはこれは有効だけれども、本当は心が身体を支配するようでなければならない。
『無門関』P22に「関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く」とあるのもこのことを言っている。
出口王仁三郎のいう「霊主体従」も同じ。
霊体一致、霊体一如だけれども同時に霊の方に重きが置かれる。
「顕幽一致」「陰陽」も同様で、「分化即統一、統一即分化」も同じ。
枝葉が茂りすぎると陽があたらないようになり木が枯れる。
行政改革が叫ばれてるけども、「省」というのもとかく行政は肥大化するところから名付けられている。
- 作者: 山本玄峰
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