『老子講義』
P14
道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。
という言葉は有名な言葉でありまして、誰の言葉かは知らないが、そういう言葉があった、と記憶している人も多いことでしょう。
これはどういう意味かと申しますと、老子の根本義である、自由自在性、無礙自在の生き方、在り方を、単的に現わした言葉なのです。生命というものは本来自由自在に、生き生きと活動できるものであって、一つの道というものがつけばその道以外には活動できなくなってしまう。また、何の誰々という名がつき何々会という会名がつけばその名の範囲に縛られてしまって、本来の生命の自由自在性が出せなくなってしまいます。人間の本質は生命そのものであって、自由無礙に何事でもなし得るように出来ているのでありますが、一つの道という定まったものを掴んでしまうと、その道がどのように立派なものであっても、その道に心が把われてしまい、本来の自由自在性が縛られてしまいます。また名にしても同じことで、何の何某という名がつけば、その名の範囲でしか生命が働かなくなってしまうものです。
人間というものは、そんな窮屈なものではない、何もの、何ごとにも把われぬ存在であって、いささかでも把われがあれば、真の道はかくされてしまい、真の名は、その本性を輝かさなくなってしまうのであります。
老子という人は、把われを最も嫌った人なので、老子の教えのどこをみても、生命の自由自在性を説いております。
この人生を生きてゆきますには、法律のようなものもあれば、宗教の道というようなものもあります。しかし、法律の原則論に把われ、宗教の道というものに把われきっているような人の頑迷さ不自由さは、この世のよどみない流れを停頓させ、生命の生き生きとした美しさを汚してしまいます。
宗教の道というのは、神のみ心の現われたところをいうのでありますので、これが道だと指し示したときには、もうその道は、神のみ心の自由性を失っているのです。これが道だ、という道は、言葉や文字でいうべき道ではなくして、その人その人の真心から自然と現われた行為の中にあるので、道そのものは変化自在なものなのです。
ですから、言葉そのもので、宗教の道を押しつけようとするやり方は、誤った道学的の在り方で神のみ心の深い味わいを無くしてしまうのです。各人が自ら行じて、それが自然と神のみ心に叶っている、という生き方こそ、道がそこに現われているのであります。
そういう生き方を常の道、真の道というのです。
名にしても同じことで、この世に生れ、この世の組織の中に生活していますと、種々と名をもつわけですが、そうした現われの名というものは、実は真実の名ではなく現われの奥に、その人や、その組織の真実の名がかくされているのです。その名とは、天命というものなのです。天命の一つの現われが、この世の名として現わされているのですから、現われの名の方にばかり気を取らて生きている人は、真実の名を現わすことはできない、つまり、天命を果すことはできない、と老子は云うのであります。
P17
無名は天地の始なり。有名は万物の母なり。
無名というのは宇宙万物を創りなす根源の力、相対的な何もの、何ごとも現われ出でぬ以前のすべての働きの根源の創造力そのもののことであります。相対に現われぬ根源の力であり、絶対なる生みの力でありますから、何ものもその力に対して名をつけることはできません。この創造力、絶対力、宇宙に充ち充ちるものを、人類がはじまってから、宇宙神とか、大生命とか、絶対者とか、創造主とか、道とか、種々と名をつけたのであります。
P22
この章は、一口に云うと、聖人というものは、相対界を超えた、無為の境涯にいて、すべての物事、事柄に把われない。自分の為したことも誇るわけでも、気にするわけでもない。どんなに自分が力をつくして為し遂げたことでも、その功にもその仕事にも執着するわけではない。そこに存在しながら、存在しているということが、人の心に兎や角の非難を起させないでいて、その人たちの心の中に存在し、その場所にも永遠に存在している。
というような、自由無礙、自由自在心の持ち主であると聖人の心境を説いているのであります。
美という感覚があれば、醜悪という感覚がその相対の相としてしてあるのでありますし、善というものがどういうものかを知るということは不善ということが、その対照的にあるということになります。この章の「是を以て聖人は」のところまでは、すべて相対世界の説明になっているのです。
P24
心というのも全く同様なのですが、人々はそうは思っておりません。頭でいちいち考えて、心を働かせて、事に当らねばならぬ、と長い間思いこんできているのです。そこで、頭脳にある知識経験の範囲で、種々と事を処してゆくわけです。そして、それが人間の当然の在り方だとされているのであります。
ところが、老子に限らず、古来の聖賢というものは、殆んどが、頭脳知識に頼ったり、こちょこちょ頭をひねって考え考え行為するような態度を否定しているのであります。
どうしてそういうことになるのでありましょうか。それは老子の云うように、肉体頭脳の小智才覚では、この相対界の苦の境界を人類がぬけ出ることができないからなのです。
P26
昔でもそうでしたでしょうが、現代では実にこの老子的な無為の生活のできにくい時代になってきているのであります。文字で読んで、頭で判って、心で楽しんでだけいる人が、老子の研究家の中には沢山いることと思われますが、老子というのは、文字にこうして残っている言葉そのものよりも、文字以前の、老子そのものの生命の動き、光明波動の流れというものが、大事なのでありますが、普通では、こうした真実のことは判りようがありません。
P33
其の鋭を挫き、というのは、道を治めた者は、自己の才智や能力を、あらわに出さずに、自己の鋭さを見せぬようにして、それでいて、種々な紛争や、出来事を、糸をとくように解決してゆかなければならない。その為には、自己が神の光明に輝いていても、その光明をやたらに人々に当てるのではなく、その人その人に応じた光りにして対応しなければいけない。即ち柔かい和やかな調和した光明を常に心身から放射するようにして、どんな塵の中にいるような汚れた人々とでも、同じような立場に立って和してゆかなければいけないという、つまり和光同塵の教えが説かれているのであります。