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【昭和正論座】京大教授・会田雄次 昭和50年4月3日掲載

観念論、つまり抽象的総論に熱狂し、それで激論し、それで徒党を組み、相互に激論し憎悪し合い、はてしない肉体的衝突さえくりかえす。

 だが、私たちには、実は各論だけがあって総論はかくれ蓑(みの)にすぎず、だからこそ総論に固執するのではないか。

 もうすこし判りやすくいうと私たちは、いつも心の中で自分の利益、つまり各論を、何とかうまく正反対の総論、つまり社会正義の形、いいかえれば本音にうまくたてまえの衣を着せようと狙っている国民ではないかということである。

日本の場合はとくに明らかな特長があり、それが目立ち過ぎるのだ。その特長とは、第一には各論を一挙に総論に短絡させるということ、第二に、その短絡性、つまり論理不足を埋めるために情緒的な道義をぬりこめるということである。そして第三には何も総論へ持ち込む必要がない各論にも、やたらと大義名分を主張することだ。小さな信義にこだわって大義を忘失することは誰もが落ちこみやすい陥穽(かんせい)だが、小我はもちろんのこと小節を大義化することだって何ともいやらしい。それが私たちの最大の欠点である。

これは功利的に見たって損なやり方である。雉も鳴かずばうたれまいに、余計なことをいうから、すぐそのエゴイズムが判ってしまい、その心情の陋劣さを軽蔑されるという結果を生む

日本国内でそういう偽善似非社会正義がまかり通っているのは、その正当さのためではなくて多人数や圧力団体とかいった徒党の力のせいである。

世界では一億の日本人といったって少数にすぎない。

 しかし、問題はもっとむずかしいところにある。エゴイズムではなく、各論では善であり正義であることも総論ではそうは行かないことが多いからだ。

 福祉や援助など善意の主張や、行動にしてさえこうである。個人や地域や団体のエゴイズムを感情的に総論へ短絡させ、強引に主張することが一般化したらどうなることか。

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