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『古教、心を照らす』
P92

 私が先生の本を読んで深く感じ、今までに何回となく人にお話ししたことがあるもののうちに、『続・経世瑣言』の中にある「忘の説」があります。
「一体人間に忘れるといふことのあるのは、いかにも困ったことでもあるが、また実に有り難いことでもある。造化の妙は我儘勝手な人間の到底窺知することの出来ないものがある。老荘者流は頻に『忘』の徳を説いているが、肩の凝りを解くものがある。是非を忘れ、恩讐を忘れ、生老病死を忘れる、これ実に衆生の救ひである。どうにもならぬことを忘れるのは幸福だとドイツの諺にもいっているが、東西情理に変りはない。忘却あるところに記憶がある。それでまた妙である。『忘却は黒いぺージで、この上に記憶はその輝く文字を記して、そして読み易くする。もし悉く光明であったら、何も読めはしない』とカーライルはうまいことを言っている。我々の人生を輝く文字で記すためには確かに忘却の黒いぺ―ジを作るがよい。いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は、非常に好ましいものである。寵辱すべて(都)忘却し、功名ことごとく(尽)すでに(已)抛つ』などもよい。論語の中に、孔子の人物を現して非常によい処がある。ある人が子路孔子はどういふ人かと問うた。子路は対へなかった。対へられなかったのかも知れぬ。これを聞いて孔子は日った。お前は何故かう言はなかったのか――その人となりや、憤を発して食を忘れ、楽むで以て憂を忘れ、老の将に至らんとするのを知らず、しかりと。それでこそ孔子といふ人はうれしい人である、偉い人である。前に忘年の交、忘形の交といふことを説いたが、孔子のやうな人であってこそ、どんなにも忘年の交や忘形の交ができる」
 この「忘の説」を読んで、私は、「ああ、これだな」と思いました。つまり、「自分は兵隊に行って怪我をした。もとには戻らない。それならば、どうにもならないことを忘れるのが幸福だ」と考えなければいけないのではないかということです。過去の、どうにもならないことを悔やんでいても仕方がないと思うようになりました。
 つまり昭和十四年八月二十日に、怪我をしなければよかったといくら思ってみてもしょうがない。また、召集令状がこなければよかった、戦争に行っても弾の当たらないほうにいればよかった、ということをいくら思ってみてもどうにもならない。それよりも、現在自分がおかれているところから、将来に向かって人生を切り拓いていかなければならない、とそう思ったのです。
 過去のどうにもならぬことを忘れて、現在、唯今から将来に向かって人生を切り開いていくのが、私に与えられた道なんだと痛切に感じた次第でした。
 ゲーテの「処世のおきて」というのに、「気持ちよい生活を作ろうと思ったら、済んだことをくよくよせぬこと、滅多なことに腹立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ人を憎まぬこと、未来を神にまかせること」というのがあります。また、「明日のことを思い煩うな、明日は明日自ら思い煩らわん、一日の苦労は一日にて足れり」という聖書のことばもあります。
 私自身も、過去のどうにもならぬことを忘れて、現在、唯今から人生を切り拓いていくという考えに立つことが出来たのは、安岡先生のお陰であり、また北津さんや芦田さん、そして実に多くの人ぴとのお陰であると思って感謝している次第です。

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20090617#1245237070(すべてこれから経験していく中で、ここに書き足していけたらと思います!)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20081227#1230346523(目の前にあることに一生懸命になる!)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20090604#1244104664(一度も、後ろ向きになりませんでした。)
そうではなかったのか?