弁論の生命はその論理性にある。しかし,それは説得のためのものであり,論理性だけで十分というものではない。論者の情熱とか説得する者として弁えるべき誠実さといった,理論には表れないものにも説得力を感じることがある。
最近は,パソコンを用いるせいか,総じて書面は長い。もとより長ければ説得力があるというものではない。長文の書面には深い推敲の跡がないと感ずることが少なくない。弁論となると,冗長なものは長い書面以上に始末に悪い。限られた時間内に,論点を的確に指摘した弁論を聞くと,書面とは違う深く染みいるものを感じるのであって,かつて自分が当事者席からした弁論がどう受け取られたか,と振り返ることがあるのである。
最近の若い弁護士は、大量の情報に飲み込まれて、物事を深く考えなくなったのではないかのように見えて仕方がない。今はパソコンのキーをぽんと叩いたら検索機能が働いて判例が出てくる。その判例を、担当する事件と関係なくても有利だと思うと、たやすく引用をしたり、大して推敲していないような杜撰な書面が多く見られる。
裁判は、裁判官を書面で説得するものだ。説得の材料としてこういう判例があるということを言うわけだが、あまり関係の薄い判例を持ってきても、その程度のことしか考えていないのかと、かえってマイナスにしかならない。
大手事務所でも、ひどい書面を書いているところはある。依頼者は弁護士の力を判断する力はないことから、事務所の規模の大きさだけで判断しがちだ。書面の量で判断することもあるのではないか。しかし、規模の大きい事務所は固定費も膨れがちになるので、それなりの報酬が必要になる。若いうちには報酬に見合わなくても難しい事件や新しい課題に取り組み、自分を磨く基本的な勉強をすべきだ。司法の健全な発展のためにも、組織的にトレーニングされる裁判官と違い、弁護士はそれぞれ努力が必要だ。