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加来 耕三 今こそ経営者は島津義弘に学ぶべし

「之れを死地(しち)に陥(おとしい)れて、然る後に生(い)く」

 義弘は瞬時に、決断する。
 このわずか三百の兵をもって前進し、家康の本陣前を横切り、伊勢街道に出て、堺へ向かい、国許へ戻る、というのである。

 さすがの島津将兵も、一瞬、顔色を変えた。
 前方には敵があふれている。そこへ突っ込んで逃走するというのは、明らかに自殺行為に思われた。
 後方の近江へ退却してはいかがですか、との具申もなされたが、義弘はこれを撥(は)ねつける。

 「道は前方のみ」
 なぜ、この無謀な決断に、彼はこだわったのか。
 それは、このあと予想される、家康の島津征伐を念頭に置いたからだ。できれば天下人となる家康を躊躇(ちゅうちょ)させ、戦わずに外交でけりをつけたい。そのためには、ここで島津の恐ろしさを今一度、徹底して知らしめておく必要があった。

 島津勢は関ヶ原を横断した。

 ついに家康は、追撃中止を命じた。
 帰国できた島津勢は、わずかに八十数名でしかなかった。が、戦後、西軍についた毛利氏の所領が大きく削られたのに比べ、島津家は自領を手付かずに保持することに成功する。