名行司として誉れ高かった
出羽海部屋に入門し、9歳だった1938年夏場所で初土俵。91年初場所から第28代木村庄之助を襲名し、93年九州場所を最後に定年退職した。土俵上の所作の美しさや相撲史に精通していることで有名で、93年初場所後に史上初の外国人横綱となった曙には、力士としての心構えや大相撲の伝統などを説き、師として慕われていた。
幼少のころから相撲好きだったが、体が小さかったため専ら行司役だった。山形県鶴岡市の小学校時代の担任教諭が、当時の立行司で「松翁」と呼ばれた第20代木村庄之助に手紙を出したのがきっかけとなり、9歳で上京して弟子入りした。双葉山が69連勝を続けていた1938年夏場所、初土俵を踏んだ。
身長155センチと小柄な体、甲高い声での裁き。土俵上での存在感以上に、後藤さんの名を角界に知らしめたのが研究熱心さと事務能力の高さだった。番付などを書く相撲字のうまさや巡業の企画、会計のそつのなさは抜群で、うるさい親方衆からの信頼も厚かった。
毎日新聞紙上で相撲エッセー「軍配の目」を91年4月から99年4月までほぼ月1回担当し、大相撲に対して時に厳しい意見を述べていた。半世紀を超す行司人生からにじみ出す言葉には国技への愛情がこもっていた。
相撲の故実や歴史の知識が豊富で、小柄だが所作の美しさでも知られた。
掛け声も独特で「はっっけよい!のこっったのこっったのこったー」とキビキビしており、伊三郎の「はいけよーい、のぉーったのぉーったのぉーった」という間延びした掛け声と双璧を成した。