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政治的人間とは:江藤淳「海舟余波−わが読史余滴」を読み返して - 矢澤豊

口に勤王を唱うといえども、大私を挟み、皇国土崩、万民塗炭に陥ゆるを察せず

その後、政治の表舞台からは去りはしても、明治32年に亡くなるまで、旧幕臣中の重鎮として重きをなし、相次ぐ士族の乱の勃発にあっても付和雷同を戒め、明治日本の目指すところを見誤ることはありませんでした。

しかしその道は決して華々しいものではありませんでした。その先見性と人となりからすれば、もしも万が一、新政府内で活躍の場と機会が与えられることがあれば、相当以上の活躍をしたでしょう。しかし、ついにそのような機会は訪れませんでした。

一方の西郷は、あくまでも理想を追い求める革命家であり、西南戦争の果ての非業の死は、ある意味「宿命」であったともいえます。政治家として失敗した西郷の生き様は、しかし日本人の心に訴えるところが大きく、当の勝海舟自身が、自ら作った薩摩琵琶歌「城山」で、西郷の死を悼んでいます。その歌詞は、自らには禁じられた「英雄の死」を全うした、かつての好敵手であり畏友である人間への敬意と憧憬、そして少なからぬ羨望の発露のように聞こえます。

「維新の頃には、妻子までもおれに不平だったヨ。広い天下におれに賛成するものは一人もなかった... 。」

「民をかえりみず勤皇だ佐幕だなんだって、ソリャあべこべのはなしサ。」

「それ達人は大観す。抜山蓋世の勇あるも、栄枯は夢かまぼろしか、大隈山かりくらに、真如の影清く、無念無想を観ずらむ。何をいかるやいかり猪の、俄に激する数千騎、いさみにいさむはやり雄の、騎虎の勢い一徹に、とどまり難きぞ是非もなき、唯身ひとつをうち捨てて、若殿原に報いなむ。明治ととせの秋の末、諸手の軍打ち破れ、討ちつ討たれつやがて散る、霜の紅葉の紅の、血潮に染めど顧みぬ、薩摩たけ雄のおたけびに、うち散る弾は板屋うつ、あられたばしる如くにて、おもてを向けんかたぞなき。木だまに響くときの声、百の雷一時に、落つるが如きありさまを。隆盛うち見てほほぞ笑み、あないさましの人々やな、亥の年以来やしないし、腕の力もためし見て、心に残ることもなし。いざもろともに塵の世を、のがれ出でむは此の時と、唯ひとことなごりにて、桐野村田をはじめとし、むねとのやからもろともに、煙と消えしますら雄の心のうちこそいさましけれ。官軍之を望み見て、きのうまでは陸軍大将とあふがれ、君の寵遇世の覚え、たぐひなかりし英雄も、けふはあへなく岩崎の、山下露と消え果てて、うつればかわる世の中の、無量の思い胸にみち、唯蕭然と隊伍を整へ、目と目を合わすばかりなり。折りしもあれや吹きおろす、城山松の夕嵐、岩間に咽ぶ谷水の、非情の色もなんとなく、悲鳴するかと聞きなされ、戎衣の袖もいかに濡らすらむ」

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20091222#1261463700