「身を引きたいと申し上げた」
そのうえで、小沢一郎民主党幹事長の辞任の経緯については、1日の会談で「『私も辞めますが、一番求められているのはクリーンさだ。そのために身を引いていただきたい』と言い、小沢氏は『分かった』と答えた」と説明した。
退陣を考え始めた時期については「身を引くことが結果として国益につながると判断した。10日か1週間くらい前から、そのことを自問自答していた」と述べた。
【鳩山発言詳報】(1)「国民が聞く耳持たなくなった」
【鳩山発言詳報】(2)「社民党の政権離脱、責任とらなければ」
「私はつまるところ、日本の平和、日本人自身で作り上げていくときを、いつかは求めなきゃならないと思っています。アメリカに依存し続ける安全保障、これから50年、100年続けていいとは思いません。そこのところもぜひ、みなさん、ご理解をいただいて、だから鳩山が何としても、少しでも県外にと思ってきた。その思い、ご理解を願えればと思っています。その中に今回の普天間の本質が宿っていると、そのように思っています。いつか、私の時代は無理でありますが、あなた方の時代に日本の平和をもっと日本人自身でしっかりと見つめ上げていくことができるような、そんな環境をつくること。現在の日米の同盟の重要性はいうまでもありませんが、一方でそのことも模索をしていただきたい。私はその確信の中で、しかし、社民党さんを政権離脱という大変厳しい道に追い込んでしまった。その責任はとらなければならない。そのように感じております」
「たとえば地域主権、原口大臣が先頭を切って走ってくれています。国が上で地域が下にあるなんて社会はおかしいんです。むしろ地域のほうが主役になる日本にしていかなければならない。それがどう考えても国会議員や国の官僚が威張っていて、くれてやるからありがたく思え、中央集権の世の中、まだ変わっていませんでした。そこに少なくとも風穴が空いた。かなり大きな変化が今できつつある。これからさらに一括交付金など、強く実現を図っていけば、日本の政治は根底から変わります。地域のみなさんが思い通りの地域を作ることができる、そんな世の中に変えていけると思います。今すぐなかなか分からないかもしれません。しかし、5年、10年たてば必ず、国民のみなさん、ああ、鳩山が言っていること、こういうことだったのか。分かっていただけるときが来ると確信しています。新しい公共もそうです。官が独占している今までの仕事をできる限り公を開くということをやろうじゃありませんか。みなさん方が主役になって、本当に国民が主役になる、そういう政治を、社会を作り上げることができる。まだ、なかなか新しい公共という言葉自体がなじみが薄くてよく分からん。そう思われているかもしれません。ぜひ、きょう、お集まりの議員のみなさん、この思いを、これは正しいんだ。官僚の独占した社会ではなく、できるだけ民が、国民のみなさんができることは全部やりおおせるような社会に変えていく、そのお力を貸していただきたいと思います。東アジアの共同体の話もそうです。今すぐという話ではありません。でも、必ずこの時代が来るんです」
「雨の日には雨の中を、風の日は風の中を、自然に歩けるような、苦しいときには雨天の友。お互いにそのことを理解し合いながら、しかし、その先に国民のみなさんの未来というものをしっかり見つめ合いながら、手を携えてこの国難とも言えるときに、ぜひみなさん、耐えながら、そして国民との対話の中で、新しい時代をつかみ取っていこうではありませんか。きょうはそのことを、みなさま方にお願いを申し上げながら、大変ふつつかな私でございましたけれども、今日まで8カ月あまり、みなさんとともに、その先頭に立って歩ませていただいたことに心から感謝を申し上げながら、私からの国民のみなさん、特にお集まりのみなさま方へのメッセージといたします。ご静聴ありがとうございました」
「月曜、火曜(1日)とお会いしました。月曜のときには私の方から身を引きたいと。辞したいということを申しました。そして、その翌日、3人でお会いしたときに私も辞めますが、やはり先ほどこれは両院(議員)総会で申しましたように、一番求められているのは政治に対する、政治とカネにおけるクリーンさだと。やはり、クリーンな民主党に戻さなきゃいかんと。そのために幹事長にも身を引いていただきたいということは申し上げ、分かったということでありました。そして改めて、(衆院議員の)小林千代美さんにも引いてもらいたいということを私から申し上げた。それは幹事長が、それは私がやろうということを申されました」
「やり残したことといえば、やはり日露関係でありまして、領土問題に対してやはり、今年3回メドベージェフ大統領と真剣に議論できるなと。非常にこれは楽しみにしていました。必ずそこで進展があると、そのように自分なりに心に誓うものがあったものですから、それができなくなったことはまことに残念。そのように思っています。それから、このようなことがもっと早くできなかったといわれても、なかなかこういう環境じゃないとできなかった演説かもしれませんし、自分の心境という中で、ある意味で総理という職の緊張感の中で十分に自分自身を出し切れなかったというところがあるかもしれません」