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国の情報提供 適切と言えずと指摘 NHKニュース

中間報告によりますと、原発事故が発生した翌日の3月12日、国の原子力安全・保安院では、中村幸一郎審議官が当時の寺坂信昭院長と相談のうえ、午後2時ごろの記者会見で、1号機の原子炉の燃料について「炉心溶融の可能性がある。炉心溶融がほぼ進んでいるのではないだろうか」と説明しました。ところが、総理大臣官邸保安院の炉心についての発表に懸念したり、発表前に情報提供を求める声があったりするという情報を寺坂院長が受けた結果、保安院の記者会見は、それまで1、2時間おきに定期的に行っていましたが、その後、開く間隔が広がったと指摘しています。

また原子力安全・保安院のその後の記者会見では、中村審議官から交代した2人の幹部職員が、1号機について「炉心の状態は正確に確認できていない」「溶融までいっているのかよく分からない」などと「炉心溶融」という表現を使わずに説明するようになったとしています。

結果的に1号機の炉心については、5月に東京電力が燃料の溶融を示す内容を公表しています。

さらに同じ3月12日、東京電力の福島事務所が報道機関からの依頼を受けて1号機の原子炉建屋の水素爆発後の写真を公表したところ、東京電力の当時の清水正孝社長が総理大臣官邸から事前に連絡がなかったとして注意を受け、その後、東京電力は記者発表や公表する資料について総理大臣官邸の了解を得るようになったということです。

こうした対応について中間報告では、事故直後の国の情報提供は記者会見の発表を控えたり、説明をあいまいにしたりする傾向がみられ、適切だったとは言えないと指摘しています。

保安院・菅前首相の対応、混乱助長…事故調強調

 事故後、官邸に設置された原子力災害対策本部の事務局を務めたのが保安院だ。現地や東電からの情報収集の中核となるはずだった。


 ところが、事故発生当初、保安院が専ら頼りにしたのは、派遣されてきた東電社員が携帯電話で本店から聞き取る情報だった。本店はテレビ会議システムを通じ、同原発の対策本部とリアルタイムで情報を共有していた。だが保安院は約600メートル離れた東電本店に職員を差し向けもしなかった。

 原発のお目付け役となる保安院原子力保安検査官も危機に対処する気概を欠いていたと言わざるを得ない。事故当時、同原発には検査官が4人いたが3月12日午前5時頃、一度退避した。翌朝、原発に戻ったが、14日昼前に3号機の水素爆発があったため、同日夕に再び原発を離れた。

 報告書が次に強調したのは、菅首相(当時)が関係機関とのコミュニケーションを欠いたまま重要な判断を行い、混乱を助長したことだ。