「ゴルバチョフが85年3月に共産党書記長に就いてからおよそ4カ月後、7月1日か2日だったと思う。突然、グルジアの党第1書記だった私に『エドゥアルド、モスクワに来たまえ』と電話をよこし、中央委員会の国際問題担当書記か外相のポストを提示してきた。私は『グルジアでの仕事に満足している。ここに置いておいてほしい』と頼んだのだが、『そうはいかない。話はモスクワに来てからだ』と切り返された。7月3日にはもうソ連外相に任命されていた」
「ゴルバチョフは全く新しいソビエトの政治家だったが、古い世代から必要なものを取り入れもした。たとえば、アンドロポフ(書記長、82〜84年在任)はその高齢にもかかわらず、国を救済するには別の思考と人材が必要だと理解していた。党のエリートらは84年2月、アンドロポフの遺志に反して御しやすいと考えたチェルネンコ(書記長、84〜85年在任)を後継に選んだが、その彼は結果的に、対米関係の改善についてグロムイコの強硬な立場とは一致しない決定を自ら行った。だから、私たちのとった新しい対外路線はチェルネンコに源を発していると言ってよい」
――ソ連外相時代の最大の功績は何だったと考えているか
「第1に冷戦を終結させたこと、第2にアフガニスタンからのソ連軍撤退、第3にハンガリーやチェコスロバキアといった東欧諸国を解放したことだ。その後にはドイツ統一もあった」
――冷戦の終結や東西ドイツの統一について、ソ連や東側陣営の敗北だといった感情はなかったか
「なかった。私たちは当時、新しい世界について語っていたのであり、統一ドイツはその一員となったのだ。これは大変な作業だったが、私たちは最終的に東ドイツから軍を引き上げることを約束した。重要なのは、私たちが50万人のソ連部隊を全く無血で撤退させることに成功したということだ」
――冷戦終結に当たっては米ソ軍拡競争の問題もあったのではないか
「ゴルバチョフが政権に就いてすぐに対外政策の刷新が問題となった。米レーガン政権の(宇宙にミサイル迎撃システムを配備する)戦略防衛構想(SDI)が深刻な脅威となっていたからだ。この構想の現実味を理解するために、私とゴルバチョフは核研究者らの話を聞いた。彼らは当初、そんな兵器を造るのは不可能ということだったが、2週間後になって彼らは謝罪と前言の撤回にやってきた。彼らは国の経済事情が許せばそうした核兵器をつくるのは可能だとし、米国に10年か12年必要だとすれば、ソ連は20年か25年かかると述べた。まさにここから対米関係改善のプロセスが始まったのだ」
――ソ連崩壊後のグルジアの歩みは平坦(へいたん)でなかった。あなたはグルジアの第2代大統領として独立グルジアの基礎を築く役目を引き受けたわけだが
「独立国になるというのは、そんなに容易なことではない。私たちは首尾良く改革を行い、95年には新憲法を制定した。土地改革、司法改革をやったし、私の大統領時代には完全な言論と報道の自由があった。2本の石油パイプラインと天然ガス・パイプラインが建設されたが、特にBTC石油パイプライン(バクー−トビリシ−ジェイハン)とBTEガス・パイプライン(バクー−トビリシ−エルズルーム)には世紀の意義がある。99年には欧州評議会への加盟も果たした」
――2003年にあなたが大統領を辞任することになった「バラ革命」について何を思っているか
「選挙後の新議会で演説していたときに、武装した人々が侵入してきたのを覚えている。私は衛視に連れ出され、非常事態を宣言した。私は当時、まだ大統領であり、軍の最高司令官だった。軍に制圧を命じることもできただろうが、そうすれば同じグルジア人の血が流れる。文字通り30分後、私は帰宅途中の車から事務方に電話し、即座に非常事態令を撤回するよう命じた」
「家では妻が非常事態令のニュースに怒っていた。私が『血は流れない。私はもう明日から大統領ではない』と言ったところ、彼女は私を抱きしめて口づけてくれた。『アラブの春』で不断に血が流れている現状を見るにつけ、私は自分の決断を誇りに思っている」