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京都大学教授・佐伯啓思 古典軽視 大学改革の弊害

 11月1日は「古典の日」であった。「古典に親しもう」ということをわざわざキャンペーンしなければならないのが、いささかつらいところではあるが、致し方あるまい。本来、「古典」とは、われわれの日常生活のなかに組み込まれた知恵であったり、子どものころに簡略版で読んだりしたものだが、もはやそういう習慣も失われてしまったのだから。


 それが一般社会であればともかく、大学となるといささか問題である。先日、数人の学生と話したおり、漱石の「草枕」の例の有名な冒頭を述べたところ、ほとんど誰もそれを知らなかった。漱石を読んだという者もほとんどいなかった。「どうしてか」と問うと、「僕らの時代とは時代感覚が違い過ぎる」というのである。


 これでは「古典」など読むはずもなかろう。「時代感覚が違う」のである。

 となれば、同時代のものしか読まない。しかも、自分の生活実感にあったものしか読まないだろう。言いかえれば、今の自分にあてはまるものにしか関心がないのだ。この方向を延長すると、今ここで役にたつものにしか関心が向かないだろう。


 これは困ったことである。しかし実は、この心理にお墨付きを与えてきたのが、この十数年の大学改革であった。大学教育の基本方針を「社会にでて役にたつ学生をつくる」という方向で推進してきた。同時に、教育・研究上の短期的で可視的な成果主義を重視し、その評価を大学の事実上のランク付けとし、時には大学の予算にまで影響を及ぼすようなシステムを作り上げてきた。


 このなかで、十数年にわたる「教養教育」の解体も進められてきた。「社会に役立つ」からすれば「教養」などというものは無用の長物であって、大事なことは「専門的知識」を受け付けることである。したがって、「教養」と呼ばれるものは、「専門の導入」や「社会へでて役立つ知識」でよいではないか、というのである。


 ところで、最近出された藤本夕衣さんという教育学研究者の書いた『古典を失った大学』という好著を読んだ。この書物のなかで、藤本さんは、今日の大学教育の混迷の根本的な理由を「ポストモダンの大学」に求めている。ポストモダンとは何か。それは、人々の共有する価値が見えなくなり、何が大事かという順位づけさえできなくなってしまった時代である。ということは、書物や知識においても、何が大事な書物で、大事な知識か、という議論そのものが成立しなくなったということだ。すると、「古典」という権威はなくなってしまう。すべてが相対化され、「何でもあり」となる。


 となればどうなるか。漱石も鴎外ももはや権威でも何でもない。「源氏物語」も別に日本人が誇るべき古典などというものでもない。もちろん古典は日本に限ったことではない。プラトンだってマキャベリだって、別に特権視するにはおよばない。それよりも、最近の流行作家を読めばいいし、「何とかムック」あたりですませばよい。あるいは「社会にでて役にたつ」簡略版の専門書だけ読んで単位をそろえればよい、ということになろう。


 しかし、「古典」とは何であろうか。「古典」とは、人間の生の充実や社会の規範や世界の見方などを模索するそのきっかけを与えてくれるものである。確かに時代は違う。したがってそこから直接的に「役に立つ」答えを得られるものではなかろう。だが古典に書かれている問題は普遍的であり、そこで扱われているテーマはわれわれの時代と共有できるものなのである。それこそが古典が長く読み伝えられてきた唯一の理由であろう。


 今日の時代は、さまざまな事項がいり乱れ、交錯した複雑な時代である。たいへんに生きにくい時代である。だからいくら「専門的知識」ばかり身につけても決して「生」が充実するわけではないのだ。むしろ「専門的知識」の独り歩きこそが人間を偏ったものにする危険は大なるものがある。大事なことは、何が重要かという問いを自分に発する能力であり、ものごとを自分で考える力である。そして「古典」とは、その手助けであり、その訓練となる。


 かつては、それは「人格陶冶」としての「教養」とされた。戦後の教育改革のなかで、それは「一般教育」と呼ばれるようになった。そして今また、それは専門教育への単なる準備や実践的知識の伝授に貶(おとし)められようとしている。


 先にあげた藤本さんが述べているが、1980年代に教養教育の意味づけについて大論争(「文化戦争」と呼ばれた)のあったアメリカで、それぞれ対立する立場に立つ2人の哲学者が、それでも「古典を読む」ことこそが大事であり、それこそが大学の意義だ、という一点において一致している、と指摘している。


 その通りだと思う。大学が学生に提供すべきことは、さして役にもたたない専門をただの知識として授けることでもなければ、ともかくも単位を与えて企業へ送り出すことでもない。重要な問題を自分で見つけ、考える習慣を身につけることである。そして、それを可能ならしめるためには、「古典は時代感覚が違うから読んでも意味がない」という相対主義の思い込みから解放されねばならない。


 数年前に政府が「社会人基礎力」といった。大学においても、企業で活躍できる人材を育成する教育の効率化が求められる、ということである。こうして「改革」が毎年のように続行される。しかし、1冊の「古典」も読まず、自分の愛読書ももたない「学士」がいったい「社会人基礎力」を持ちうるのであろうか。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20121117#1353163432