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幸田露伴の文語体の心地よいリズムに酔い痴れる・・・【山椒読書論(70)】

壬申の乱と建文永楽の王位争奪があまりにも酷似していることに気づいたのである。永楽帝の時代より800年前の672年、天智天皇の長子大友皇子弘文天皇)の近江朝廷に対し、吉野に籠もっていた天智天皇実弟大海人皇子が叛乱を起こした。

懐良親王 - Wikipedia

後醍醐天皇の皇子。

南朝征西大将軍であったことから征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。

明の太祖がこの頃北九州で活動していた倭寇と呼ばれる海上勢力の鎮圧を要求する国書を懐良親王に送ると、懐良ははじめは断るものの、後に「日本国王良懐」(『太祖実録』の記述による)として冊封を受け、中央では既に南朝勢力は衰微していたものの、懐良親王は明の権威と勢力を背景に独自に九州に南朝勢力を築く。

図書カード:運命

定命録、続定命録、前定録、感定録等、小説野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭も、悉く天意に因るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏れて、巫覡卜相の徒の前に首を俯せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教の下に心を安くせんには如かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命を称して歎じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋とすべし。事敗れて之を吾が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委ねなば、其人偽らずして真、其器小ならずして偉なりというべし。先哲曰く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或は能く数を知らん。
 古より今に至るまで、成敗の跡、禍福の運、人をして思を潜めしめ歎を発せしむるに足るもの固より多し。されども人の奇を好むや、猶以て足れりとせず。是に於て才子は才を馳せ、妄人は妄を恣にして、空中に楼閣を築き、夢裏に悲喜を画き、意設筆綴して、烏有の談を為る。或は微しく本づくところあり、或は全く拠るところ無し。小説といい、稗史といい、戯曲といい、寓言というもの即ち是なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈図らんや造物の脚色は、綺語の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能わざるの巧緻あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試に看よ建文永楽の事を。

運命 (幸田露伴) - Wikipedia

建文帝は追われ潜伏し僧となり、雲南の地などを何十年と流浪せるも、平和な一生を送ったのに対し、永楽帝は長く在位せるもいささかも安穏の日は無く、晩年も遠征が相次ぎ、その最中に病により崩じた。

建文帝 - Wikipedia

建文5年(1402年)、燕王軍は南京を陥落させ、建文帝はその際の混乱により行方不明となった。当時は僧に変装して逃亡したとも言われている(先帝の洪武帝から「身の危険があったときに開けるように」と渡された箱を、このとき開けると剃刀と金子が入っていたという)。ただし、逃亡説は伝説的なものに近く、殺されたか自殺したと考えるのが通説である。享年24。

雲南・貴州・四川にかけて、建文帝が皇位を追われた後に僧侶として往来したとされる旧蹟がいくつも存在しているほど、生存説は根強くある。

幸田露伴『運命』では名君として描かれ、また逃亡説が採られ数十年の余生を過ごしたとされている。