これまで東京やニューヨークのキャリアフォーラムで学生に話をする機会が何度かあったが、運用会社を希望するような学生は決まって俗に言うエリートの卵のような学生ばかりであり、私からするととても気持ちの悪い感じがする。
こういった自称グローバルエリートの卵たちは運用会社の他に、ゴールドマン、JP、バークレーズのような外資系証券や、マッキンゼーやボスコンのようなコンサルにも興味があり、自身を高く売れて、かつ潰しの効くところを探している。
私はやれやれと思いながらも、運用の仕事は学校の勉強とは違い、世の中のあらゆることに興味のある柔軟な発想力を持った人間が生き残るというような話をする。一方で仕事には向き不向きがあり、人生における喜びとは決して給料の高い仕事をすることではないし、たかが数百万円の年収の違いのために好きでもない仕事をするべきではないことも強調して述べる。
何も知らない学生たちに私の声が届かないのは無理もないが、彼らのようなエリートによくあるパターンは、金融の仕事が地味で激務で、その上なかなか成果の出ないものであることを知り、30歳になる頃までに脱落していく。私は何人もの業界を去っていく同僚に同じような話をしたことがあるが、彼らは決まって「その話を新卒の頃に聞いておけばよかったよ」と言うのである。
しかし彼らは真面目な人たちばかりなので、挫折の後に、自分が社会に対してポジティブな影響を与えられる仕事をすることが最もハッピーであるということに気づく人が多い。もともと何かに打ち込む力は高い人たちなので、方向性が見えると、新しい道を切り開くのは意外に早かったりする。
こうして彼らは、エリート集団の中で足の引っ張り合いするだけの毎日とは決別して、NPOを立ち上げたり、学校の先生になったり、女性用の化粧品会社の広報担当者になったりして、本当の意味での自分探しの旅の終着点にたどり着くのである。
私は投資家を辞め、神楽坂で雑貨屋を開いた同僚を訪ねたことがある。8畳程の狭いスペースに、東南アジアを渡り歩いて自分で仕入れてきたという雑貨やアクセサリーが綺麗に並べてある。「なかなか繁盛しているようですね」と皮肉を言うと、彼は投資家の時には決して見せなかった優しい笑顔で「お陰様で、今日の飯が食べられる程度の売上だけどね」と答えた。
彼らのようなケースを幾つも見ていると、金融界の精神的な不健康さが如何に凄まじいのかがよく分かる。学生は自分はエリートであるから、エリートに相応しい仕事があるという間違った認識をもって就活をしている。
結局、エリートにとっては「こんなはずではなかった感」が強く、本当のやりがいのある適職に出会うのには、幾つかの寄り道が必要となるのである。