かつての日本企業は、その組織力の強さが世界の注目を集めていた。欧米の研究者には、組織力は1人1人の自発的な協力と組織への忠誠からつくられているように見えた。
だが実際には、もっと「しがらみ」だらけの窮屈な社会であったことは、日本人である私たち自身が知っている。
上司、先輩には逆らえず、理不尽なことにも耐えなくてはならない。それができない者は社会人失格のレッテルが貼られる。職場のお局さまの目が怖くて有給も取れない。社員旅行に参加しないと、後で何を言われるかわからない。女性というだけで、飲み会ではコンパニオンさながらの振る舞いをしなくてはならない。
私たちは、そのようなしがらみでがんじがらめになった会社組織に嫌気がさしていた。
しかしバブル後に、そのしがらみが徐々に緩んできた。理由は終身雇用制が崩壊し、労働人口の流動性が高くなってきたからだ。
労働人口の流動性が高くなるということは、職場での人間関係が短期的なものになりやすいことを意味する。昔のようにしがらみを気にしなくても、「自分の好きなようにしても構わない」という人が増えてくる。
しかし、そのような「しがらみからの解放」は、人間関係の崩壊も同時にもたらした。お互いのことをよく知らない、協力し合えない、そんな人間関係では組織は立ち行かない。
かくて、職場の鬱の問題は大きくなり、フリーライダーは増え、不機嫌な職場が蔓延する事態となった。
ここで、しかし1つの疑問が生じる。それは、日本よりもはるかに早くから労働人口の流動性が高かった米国などでは、同様の問題は起きていないのか、というものだ。結論から言うと、起こってはいるものの、それほど深刻ではない。なぜなら、米国に限って言うならば「協力的な個人主義」があるからだ。
現在の「集団嫌い、組織嫌い」の日本人は「孤立主義」だ。他者と関わること自体が面倒だと思い、協力するつもりにもならない。集団のしがらみから自由になることだけが目標で、孤独になることのリスクをあまり考えないやり方である。自分では意識していないものの、孤独であることには相当な心理的負担がかかる。それが引きこもりや新型うつのような形で出てくるのだ。
その証拠に、アメリカの初等教育で最も強調されるのが、「Be unique 」(個性的であれ)と「Team up」(チームをつくれ)という、一見矛盾に思える2つの考え方である。そして強烈な個性がチームをつくったときに、集団は信じられないほどのパフォーマンスを見せる。
組織のしがらみを脱するのは良いが、その後自分から良い人間関係を築いていかなければ、幸福感は得られない。しかし、今多くの日本人が組織のしがらみを脱することが目的となってしまい、その後のことを考えていないように私には思える。
それは、長らく日本社会は、そもそも自分から人間関係をつくろうとしなくても、勝手に人間関係のネットワークに「組み込まれる」社会だったからだ。何かに「所属」していれば、自然とその集団の人間関係の中に入り、そこに適応することを要求される。そこでは、入った集団のしがらみを気にする能力こそが重要であり、新たな関係をつくる能力を発達させるチャンスはない。
それが、鬱、引きこもり、ぼっち社員の増加など、現在の日本の職場における様々な問題となって噴出している。
個人主義の文化では、「個人個人は異なっている」という考え方を前提としている。その上で協力し合える関係をつくることが重要だという価値観を持っている。コミュ力とは、その価値観を体現できる力だ。