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【ニッポンの分岐点】通貨戦争(2)プラザ合意 協調と摩擦の始まり

 ニクソン・ショックによって固定相場制は崩れ、変動相場制という新しい国際通貨秩序が築かれた。その下で、日本経済は為替動向に翻弄され続けることになるが、本格的な円高時代の幕開けとなったのが1985(昭和60)年9月の「プラザ合意」だった。

 85年9月22日。日曜日だったこの日、蔵相(現在の財務相)の竹下登は、千葉にゴルフに出かけた。1ラウンド、プレーした後、向かった先は成田空港。ゴルフウエアを着たままだった。日銀総裁澄田智は風邪を理由に予定をキャンセル、マスク姿で駆けつけた。2人はそのまま、人目を避けるように米ニューヨークに飛んだ。当時、存在自体も認められていなかった先進5カ国(G5)蔵相・中央銀行総裁会議に出席するためだった。

 G5がニューヨークのプラザホテルで開催されることは、開催直前に米政府から発表された。なぜ、G5の存在を明かしたのか。当時、大蔵省(現財務省)国際金融局長だった行天豊雄(82)(現国際通貨研究所理事長)は、「市場にインパクトを与え、合意内容の効果を確かめる上で重要だった」と振り返る。G5は貿易不均衡是正のために「政策協調」という手段を編み出した。その効果を最大限に高めるため、ドル高是正への強い意思を市場に示すことが狙いだった。

 合意内容は蔵相代理の間で事前に交渉が進められた。日本からは財務官の大場智満(83)が参加。大場によれば「会議の1週間前に合意文書の大半はできあがっていた」というが、準備期間は約2カ月に及び、各国の思惑がぶつかりあった。


 各国の蔵相代理はいったん「ドルが他の通貨に対して弱くなることが望ましい」との文言で合意。だが「強いドル」に固執するレーガン大統領の反対で米国が修正を求め、合意文書は「ドルに対して主要非ドル通貨の秩序ある上昇が望ましい」と書き換えられた。


 一方、介入の規模や期間、目標レートなどについては西ドイツが「わが国では介入は中央銀行の専権事項。この場では決められない」と抵抗し、文書に盛り込むことができなかった。このため、合意文書を発表後に議論することで落ち着いたが、各国の思惑は交錯し、当日の議論は5時間にも及んだ。

 「私は円高大臣だ。円は他の通貨より高く切り上がっても構わない」。竹下は会議でこう発言、1ドル=200円程度まで10%以上の円高を許容する意思を示した。85年3月に米上院がレーガンに対日報復措置を求める決議を全会一致で可決するなど、貿易赤字が減らない米国は急速に保護主義的な動きを強めていたからだった。


 一方、西ドイツの蔵相シュトルテンベルクは「為替の問題は、日米二国間のレートの問題ではないか」と政策協調に消極的な姿勢を見せた。だが、英国とフランスからは強く西ドイツを支持する発言はなく、最終的にプラザ合意から6週間程度で総額180億ドルをめどにドル売り介入することで合意。その結果、プラザ合意直前には1ドル=240円台で推移していた円相場は、10月末には210円台に急騰した。


 ただ、円高は日本の思惑を超えて進んだ。竹下が意図した200円どころか、86年末には160円を突破、日本経済を窮地に陥れることになる。

 制御できない円高の背景には米国の「意思」もあった。米国はドル安誘導の手を緩めず、日本に景気刺激策を求め、内需拡大、市場開放を迫った。米国は「強いドル」を標榜(ひょうぼう)しながら、市場開放などを迫る手段として、その後もたびたびドル安誘導を図っている。


 日銀で国際担当理事を務めた若月三喜雄(79)(現アクサ生命保険顧問)はプラザ合意後の状況を「赤字国債の発行が常態化していたため、財政出動に消極的な日本政府は利下げを求めていた」と振り返る。円高阻止は日銀の“使命”となり、その手段となったのは公定歩合引き下げ、つまり金融緩和だった。日銀は86年1月からの約1年間で5回にわたって利下げを実施、5%だった公定歩合は過去最低の2・5%となった。


 この低金利は2年3カ月も維持された。当時を知る関係者は「政府は、89年4月の消費税導入までは景気を悪化させる可能性がある利上げを認めるつもりはなかった。日銀が利上げしたくても、総裁解任権が政府にあった旧日銀法下ではできなかっただろう」と証言する。


 金融緩和は景気を刺激する一方で、余った資金が株や不動産に流入し、バブル経済を生み出した。プラザ合意という政策協調がもたらした「陰」でもある。

 プラザ合意の最大の目的は、日米貿易不均衡の是正だった。ニクソン・ショックが起こった1971年に31億ドルだった米国の対日貿易赤字は、自動車や家電、半導体の輸出増加で84年には367億ドルに膨らんでいたからだ。当時のドルの水準は欧州通貨に対しても高く、西ドイツ、英国、フランスも引き入れ、ドル高是正で協調することになった。

 一方、87年2月には行き過ぎたドル安を是正しようと、イタリア、カナダを加えた先進7カ国(G7)が「ルーブル合意」をまとめた。だが西ドイツは米国の反対を振り切り、国内のインフレ懸念から金利を高めに誘導。市場に「政策協調は破綻した」と受け止められ、同年10月の株価暴落「ブラックマンデー」の引き金となった。