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【ニッポンの分岐点】政党政治(2)保守合同 目的達成へ盟友も切り捨て - MSN産経ニュース

 昭和30(1955)年11月15日、東京・駿河台にあった中央大講堂は、卒倒者も出る混乱ぶりだった。舞台の中央には日の丸、その上には「新党結成大会」との大書。日本民主党自由党の2つの保守政党が合流し、自主憲法の制定を党の使命に掲げた自由民主党が誕生した。この年10月には左派、右派の両社会党が統合して日本社会党を結党しており、それから40年近く続く55年体制の幕が開けたのだ。


 翌日の朝刊は大会の様子をこう伝えている。「三木老は、声量、論旨、態度とも他を圧して堂々たる漢語調の名演説。(中略)これに反して鳩山首相は、内容、音声ともにお粗末で通り一ぺんの挨拶(あいさつ)に終つた」(産経時事=当時の東京本社発行の産経新聞の名称)「熱のない鳩山、緒方演説 三木氏ひとり熱弁ふるう」(朝日新聞


 鳩山とは大会前日まで日本民主党総裁だった首相の鳩山一郎、緒方は同じく自由党総裁だった緒方竹虎記事が唯一たたえた三木は、民主党の最大の実力者だった三木武吉だ。この自身の栄誉栄達は求めず、党人に徹した人物こそが保守合同の仕掛け人であり、一番の立役者だった。


 ■爆弾発言


 さかのぼって29年4月13日。自由党吉田茂内閣で副総理を務めていた緒方は、自由党と改進党、それに三木が率いる日本自由党の保守3党による新党結成を呼びかけた。


 「政局の安定は現下爛頭(らんとう)の急務である」


 「爛頭の急務」とは「焦眉(しょうび)の急」を表し、当時の流行語にもなった。おりしも吉田内閣は年初からの造船疑獄の直撃を受けていた。だが、交渉は総裁ポストをめぐって決裂する。自由党側は吉田を総裁に据える考えだったが、改進、日本自由両党は「新指導者」を主張し、吉田に反対した。そのころの吉田といえば、人気は下降線をたどり、独裁的手法も批判を浴びていた。


 結局、緒方の構想は頓挫したが、保守勢力の結集が急務との思いは三木も同じだった。左右社会党は総選挙のたびに躍進しており、革新勢力が国政の実権を握りかねない情勢だったのだ。


 そこで三木は保守合同の障害となっていた吉田の排除に乗り出す。


 「岸君、新党の幹事長は君がやりたまえ」。三木は後に首相となる岸信介ら反吉田派を自由党から離脱させると、改進党も巻き込んで、同年11月、鳩山を総裁に日本民主党衆院120人、参院18人)を結成する。12月には左右の社会党と協力し、内閣不信任案を提出し、吉田を総辞職に追い込む。


 ここに三木の念願だった鳩山一郎首相が誕生し、翌春の総選挙では鳩山ブームで民主党は躍進、第2次鳩山内閣が組閣された。ところが三木はその直後に驚くべき爆弾発言をする。


 「保守結集のためにもし鳩山の存在が障害になるなら、鳩山内閣は総辞職していい」


 30年4月12日、三木は郷里・高松へ向かう汽車の中で、同行記者団に自由党民主党の合併による保守合同構想を発表した。目的達成のため、盟友・鳩山を切り捨てたのである。


 三木はその前夜、東京・牛込の自宅に親しい政治部記者数人を招き、保守合同構想をまとめたメモを見せていた。そのうちの一人、中日新聞政治部記者だった本田晃二(85)は述懐する。


 「いよいよやるんだなと思った。メモは永田町に火のついた爆弾を投げ込むような中身だった」


 構想に興奮する記者らに三木は「明日の朝までデスクにも言ったらダメだ」と釘を刺すのも忘れなかった。


 ただ、この時点での自由党民主党の合併はまだ非現実的だった。自由党にすれば、三木は政権の座を奪った張本人なのだ。一方、民主党側からも不満が噴出した。


 ■三木武吉の秘策


 ここで三木は秘策に打って出る。自由党の実力者、大野伴睦の説得だ。三木と大野は誰もが知る犬猿の仲で、三十数年間、一緒にお茶一杯飲むことすらなかったにもかかわらずだ。


 だが、会談しようにもチャンネルがない。そこで三木は、大野とも親しかった毎日新聞政治部の西山柳造、西谷市次に橋渡しを依頼する。


 5月15日朝、都内の大野邸を訪れた両記者は「三木さんが、あなたに秘密で会いたがっている」と告げ、三木から電話をさせると伝えた。午前10時、大野に電話した三木は「君と二人きりで会い、救国の大業を成就したい」と会談を求めた。三木−大野会談はその日の夜に実現した。大野の回顧録などによると三木は頭を下げ「日本はこのまま放っておいたら赤化の危機にさらされる」と保守陣営の大同団結を訴えた。


 「僕も男だ。君にその決意がある以上、保守合同の道はおのずと開ける」


 鬼気迫る三木の熱意に打たれた大野も、こう応じた。ここに自由民主党の結党への大きな流れが決まった。


 「半世紀にわたる政界人の行きがかり、利害、感情の一切がかなぐり捨てられて、ここに保守結集を見た」


 自由民主党結党大会で三木はこう演説したが、実はすでにかゆしか食べられないほど衰弱していた。それから1年もたたない昭和31年7月4日、三木は自宅で息を引き取った。


 本田は振り返る。「三木は、自分の寿命を逆算して、『早く政権を安定させないと日本はどうにもならない』と考えていたのでしょう…」

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130504#1367672856
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三木武吉 - Wikipedia

新宿で女遊びに明け暮れる一方、野球や法律の勉強に懸命に取り組んだ。

後に三木夫人となり、早稲田小町と呼ばれて学生から人気だった天野かね子とのなれそめもこの頃である。

1905年(明治38年)に日本銀行に入行、門司支店に配属となるが、ポーツマス条約に反対する政府弾劾演説会に飛び入り参加し、桂太郎内閣退陣を要求する演説をして服務規定違反を問われ免職となる。

1907年(明治40年)、高等文官試験(司法科)に合格、東京地方裁判所司法官補に任じられるが、宮仕えは性格にあわず、7ヵ月後、弁護士となる。

同年、天野かね子と結婚。

初当選した1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙の演説会において、立憲政友会の候補、坪谷善四郎が「名前は言わないが、某候補は家賃を2年分も払っていない。米屋にも、1年以上ためている。このような男が、国家の選良として、議政壇上で、国政を議することができるでありましょうか。この一事をもってしても某候補のごときは、いさぎよく立候補を辞退すべきものと、私は信ずるのであります」と三木を批判した。すると三木は次の演説会場で、「某候補がしきりと、借金のあるものが立候補しているのはけしからんと、攻撃しているそうだが、その借金がある某候補とは、かく言う不肖この三木武吉であります。三木は貧乏ですから、借金があります。米屋といわれたが、それは山吹町の山下米屋であります。1年以上借金をためているといわれたがそれは間違いで、じつは2年以上もたまっております。家賃もためているのは2年以上ではない。正確にいいますれば、3年以上も支払いを待ってもらっておるわけです。間違いはここに正しておきます」と反論し、会場は拍手と爆笑に包まれ、「えらいぞ、借金王」と野次が飛んだ。その会場には、三木の大家や借金先の山下米店の主人山下辰次郎も来ており、その後、三木に促されて両者とも立ち上がった。その時山下が「私は米屋の山下です。どうか皆さん、三木先生をご支援願います」と述べ、すっかり参った坪谷はそれ以来三木の借金の話をしなくなった。

戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。

「およそ大政治家たらんものはだ、いっぺんに数人の女をだ、喧嘩もさせず嫉妬もさせずにだ、操っていくぐらい腕がなくてはならん」と、男っぷり溢れる発言をしたり、松竹梅といわれた3人の妾を囲ったり (ちなみにこれは、愛人のランクではなく、実際に名前が松子、竹子、梅子だった) した。松子には神楽坂で待合茶屋を持たせた。晩年も精力に衰えはなく、72歳で亡くなるときも愛人が5人いたという。しかしその一方で愛妻家でもあり「本当に愛情を持ち続けているのは、やはり女房のかね子だ。ほかの女は好きになった…というだけだ」と述べている。妾たちもかね子を別扱いにして、世話をしていた。

東條英機内閣が提出した企業整備法案について党議決定する翼賛政治会代議士会で、中野正剛が翼政会の幹部を指差して「おおよその権力の周囲には、阿諛迎合のお茶坊主ばかりが集まる。これがついには国を亡ぼすにいたる。日本を誤るものは、翼政会の茶坊主どもだ」と発言し、主流派議員が中野を野次った時、にわかに立ち上がり茶坊主ども、黙れ!」と、野次る議員を黙らせた。