https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

海老蔵の「助六」 王道模索…[評]柿葺落六月大歌舞伎 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 第三部の歌舞伎十八番助六」は、歌舞伎の粋と贅を尽くした一大カーニバルだ。本来なら、祝祭の祭司は市川団十郎が勤めるはずだった。その痛惜を幸四郎が冒頭の口上で、劇中で三津五郎の通人が即妙のアドリブで巧みに代弁、故人への良き手向けとなった。


 市川海老蔵助六は、花道で傘を開いた一瞬で劇場全体を明るくする天性の花が存分に輝く。一方、初演以来観る者を驚かせた、野放図なまでの野性味は影を潜め、父団十郎のおおらかな助六の面影が色濃くなった。意休(左団次)へのギラギラとした挑発性よりも、江戸紫の由来に市川家の歴史を重ねる「うつり変わらで常磐木の」のくだり、喧嘩の戒めとして着た紙衣姿で辛抱する場面に深みが加わった。街を闊歩する助六とはかくや、と思わせた海老蔵の実在感は、楷書の芸であった父親の存在あってこそだった訳で、今回の「助六」は市川家の嗣子としての王道を模索する成長過程として見守りたい。


 中村福助の揚巻は、生酔いで花道を出るくだり、意休を痛烈な悪態であしらう押出しとも立派。母満江(東蔵)に付き添う場面も、助六の女房としての情愛がある。吉右衛門の門兵衛が洒脱軽妙で、対する菊之助の福山のかつぎの啖呵が痛快。菊五郎の白酒売が江戸和事の粋を見せる。ほかに「鈴ケ森」(幸四郎梅玉)。

 第一部「喜撰」。『六歌仙』で知られる高僧の歌人をガラリとくだけて江戸前に見せる趣向で、坂東三津五郎の喜撰はその雅と俗のはざまを自在に踊り分ける。小野小町の見立てである祇園のお梶(時蔵)との恋の駆け引きも面白いが、“ちょぼくれ”での、源氏物語『宇治十帖』に通じる雅な世界から、下世話な女房の嫉妬へと目まぐるしく変転する振りが飽きない。住吉踊りの軽妙さから「姉さん、おん所かえ」の色気まで歌舞伎舞踊の醍醐味を堪能できる。ほかに「俊寛」(吉右衛門仁左衛門)。

 第二部「土蜘」。尾上菊五郎に対して吉右衛門源頼光と、共にこの主役を得意とする2人の共演だけに大舞台。菊五郎は前半の僧で音もなく花道に出て「如何に頼光」と語りかける一声から不気味。修行の厳しさを語りながら頼光の様子を窺う鋭さ。後半に蜘蛛の精になってからも隈が乗り、すごみが利く。三津五郎の保昌・玉太郎の太刀持ちが好助演。ほかに「寿曽我対面」(仁左衛門ほか)。