https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

日本企業が忘れてしまった強みとは何か? アジアの世紀に再び返り咲くための資本主義 ――野中郁次郎|日本にいま必要な、アジア最強の経営|ダイヤモンド・オンライン

 日の丸企業の象徴だった日本の家電エレクトロニクス業界はかつての輝きを失った。名門、ソニーパナソニックには昔日の面影がなく、相次ぐ工場閉鎖やリストラ、事業撤退の後始末に追われている。逆に、この10年ほどで急速に存在感を増したのが、本書で取り上げた中国や韓国の企業だ。それらが市場に投じた、人々のニーズをよく捉えた安価な製品が、高価で過剰品質の日本製品を駆逐した結果といえるだろう。


 もっとも、中国および韓国企業の強さは、それ単体で論じられるべきではない。それぞれの背景に、産官が強固に連携する国家資本主義というシステムが存在することは、本書で詳細に述べている。


中国企業の強さの原動力は、その中でも触れたように、華僑の強固なつながりに象徴される「ネットワーク・キャピタリズム」にある。これは人と人との関係(グアンシ)を基礎にしたボトムアップ型のシステムだが、中国人はこれに、トップダウンの資本主義をうまく接ぎ木させ、中国独自の資本主義システムをつくりあげた。


 一方の韓国にとって奇貨となったのは、1997年、タイの通貨、バーツの下落をきっかけに起きたアジア経済危機だった。企業淘汰が劇的に進行し、いわば各産業の無駄が削ぎ落とされた。自動車メーカーは1社まで絞られた。それに対して日本は、主要なところだけで8社もある。携帯電話メーカーも韓国は2社しかないが、日本は6社もある。電力会社にいたっては、日本10社に対して韓国は1社しかない。


 こうなると国内での無駄な競争が起こらない。資金や税制面などで政府が強固なバックアップを欠かさないので、国際競争力は増すばかりだ。さらに、原発設備に代表されるように、大統領自ら新興国へのトップセールスを展開する産官一体の体制が構築されている。


 日本にも「通産モデル」のように、かつては産官が密接に連携し、知を総動員させる体制があったが、現在は消滅している。


 結局、日本人は企業と政府を対立概念で捉えることに馴れすぎたのではないか。それでも企業が勝てた時代はよかったが、グローバル競争はますます激化している。企業に稼いでもらわないと国富は増えない。両者の連携を強化していくことの重要性を、われわれは中国や韓国から学ぶべきだろう。

 韓国企業、中国企業のやり方は、「学習モデル」である。学習、つまり模倣の対象は、多くは日本企業であった。これまではそれが成功してきているが、これからはわからない。韓国企業のやり方を中国企業が模倣し、中国企業のやり方を他の新興国企業が模倣しはじめているからだ。


 もちろん、日本も最初は模倣から始まった。その対象は欧米であった。模倣できるのは形式知のみで、暗黙知を模倣することはできない。日本企業の強みは、その形式知の模倣から始まる学習モデルから、暗黙知から新たな知を生み出す「創造モデル」への転換に成功したことだ。


 その創造モデルを突き動かしているのが共通善(コモングッド)、すなわち、企業は社会にとってよいことを実現し、提供していくべきだ、という信念ではないだろうか。最近、中国企業の幹部を日本に招き、日本企業のトップと懇談する場に同席する機会があったが、彼らは日本のトップが異口同音に「世のため、人のために事業を行っている」と話すことに、非常に驚いていた。日本のトップは市場原理との間で危ういバランスを保ちながら、「武士は食わねど高楊枝」ではないが、「世のため、人のため」をいつも意識している。これがわれわれの誇る「サムライ・キャピタリズム」ではないだろうか。


 ただし、これは世界的潮流でもある。イギリスの『エコノミスト』誌は2013年のグローバルトレンドの1つに、「利益から目的へ」を挙げた。「銭(ぜに)金(かね)のため」ではなく、顧客や社会、そして株主からも、その事業を何のためにやるのか、が強く問われる時代になってきているのである。中国、韓国企業も、模倣を軸とした学習モデルから、知識を核とした創造モデルに移行するには、共通善の実現という大義を掲げ、身体性を伴う暗黙知を重視していくしかないだろう。


 中国、韓国企業がそうくるとしたら、日本企業もいまの地位に安住することなく、虎の子の「創造モデル」をさらにリファインさせる必要がある。


 そのために必要なのが「知的機動力経営」ではないか、と考えている。


 そもそも機動力が肝となる「機動戦」とは、指揮官の意思決定や兵力の移動・集中を迅速に行うことで敵の優位に立ち、敵を殲滅せんとする戦闘方法をいう。上からの指揮命令よりも、現場の状況判断とそれに基づいた率先垂範の行動に重きを置く戦い方だ。


 知的機動力経営とは、この機動戦の定義にならい、ミドルを中心とした現場の人材がすべてリーダーとなって、付加価値の源泉である知識を高速かつテンポよく創造し、上は企業戦略のレベルから下は日常の仕事のレベルまで、社員一人ひとりが柔軟な構想力と行動力を発揮している経営のことだ。


 本書終章の鼎談で、私はこう述べた。日本企業は中国企業や韓国企業に、リスクを取りに行く積極果敢の精神と物事を進めるスピード、この2つをもっと学ぶべきだと。まさにそれこそが機動力なのであり、最近の日本企業に圧倒的に欠けている部分だ。


 以前は機動力のある日本企業が多かったのに、なぜそうなってしまったのか。


 私はその原因を、2000年あたりから「選択と集中」「成果主義」「株主利益の最大化」といった欧米企業のやり方を安易に模倣した、「数値で計測できる経営指標」を各企業がこぞって取り入れたことに求める。それによって、企業の目的は何か、自分は何のために働くのか、という各人の主観や価値観が顧みられなくなってしまった。その結果、組織内で社員を育成する余裕が無くなり、一方で人事部は現場から遊離して、予定調和のコンピテンシーを追求するような傍観者的観念論で人事を動かすようになってしまった。そのことが日本企業の機動力を毀損させたのではないだろうか。


 主観や価値観といった暗黙知を共有している組織は物事が決まりやすい。逆の場合は、何かが起こるたびに角突き合わせた議論が必要になり、欧米流のトップダウン経営はともかく、ミドルが強い日本流の組織では必然的に経営のスピードが落ちてしまう。


 日本企業が知的機動力を取り戻すには、そうした理論分析過多症、経営計画過多症、コンプライアンス過多症を脱しつつ、思いを持ったリーダーをつくることから始めなければならないだろう。


 具体的には、知識創造を不断に、圧倒的なスピードで起こし続けられる人材、すなわち「実践知のリーダー」の育成である。そういう人材は、(1)善い目的をつくる能力、(2)場をタイムリーにつくる能力、(3)ありのままの現実を直観する能力、(4)直観の本質を物語る能力、(5)物語を実現する政治力、(6)実践知を組織化する能力を備えている。知的機動力経営を実現するには、こうしたリーダーが組織に広く、自律分散的に存在していること、しかもピラミッド型組織ではなく、重層的な相似形構造のフラクタル型組織であることが必須だ。


 先の6つの能力に加え、複雑性がますます増している現代の企業社会を勝ち抜くためには、時間軸や空間軸を見据えながら、事象の関係性を洞察できる高質な構想力が必須となる。それを「歴史的構想力(ヒストリカル・イマジネーション)」と言い換えることもできる。


 歴史家は、過去の事実と自らの想像との間を往還し、歴史のあるべき姿をシミュレートしながら、大きな歴史の流れを紡ぐ。そのときに必要なのが歴史的構想力だ。一方、歴史家ではない一般のリーダーは、現在の事実に基づいて未来のあるべき姿を思い描き、現実を常に過去としながら未来をつくっていく。現在は過去の延長にほかならないから、視線の先が過去か未来かの違いだけで、その行為は一流の歴史家と似通っている。つまり、未来を創造するリーダーにも歴史的構想力が必要であり、それがあれば鬼に金棒となるのだ。


 こうした人材を育成するには、MBAプログラムが軽視しがちなリベラルアーツ(教養)教育が鍵を握る。人間とは何か、社会とは何か、真・善・美とは何かを徹底して考えさせることで、物事の関係性を読む能力を高めるのだ。


 修羅場体験など、高質の仕事経験を積ませることも大切だ。制度人事から個別人事へ軸足を移し、適材適所の適時実現によって、実践を通じてリーダーを育成する。広範なプロジェクトリーダー制を敷くのもいいだろう。その際、各リーダーに人事権を与えることを恐れてはいけない。そうやって仕事の文脈に応じて各人の可能性を見極め、人と組織の能力を解き放つ。それをグローバルレベルで実践するのだ。


 そうすれば、さまざまな人材が持つ知を結集できるプロデューサー型人材が育成できる。本田宗一郎松下幸之助井深大早川徳次、考えてみれば、これら日本を代表する起業家たちこそ、すべて超一流の知のプロデューサーだった。そういう人材がトップはもちろん、ミドル層にも多数揃っている企業は強い。


 こうして育成されたリーダーが組織にちらばっていけば、生きた見本となり、下からも同じようなリーダーが陸続と生まれてくるだろう。