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嗚呼、草莽の微臣田中正造翁

田中正造は、自伝の冒頭を、「余は下野の百姓なり」という一文で始め、
明治天皇への直訴状を、「草莽ノ微臣田中正造・・・慎テ奏ス」と書き始めている。
そして、「田間ノ匹夫、敢エテ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ鳳駕ニ近前スル、ソノ罪実ニ万死ニ当タレリ。而モ甘ンジテ之ヲ為ス所以ノモノハ・・・」と直訴状を続けている。


田中正造は、尊皇の志篤く、まだ江戸時代の青年の頃、遙か大和橿原の神武天皇御陵を参拝している。
田中は、明治二十三年、第一回の衆議院選挙に当選し、足尾鉱山鉱毒事件に遭遇する。
これは、足尾鉱山からでた鉱毒渡良瀬川に流れ込んで下流の田畑を汚染させ収穫不能の地にしてゆく事件であった。田中は、川と田畑からの恵みを奪われて流民となってゆく村落の人々を救うために立ち上がった。
彼はその為にあらゆる努力をした。
勝海舟の座談録を読むと、海舟が「このまえ、ここに田中正造がやってきて、さかんに鉱毒の害について話していったよ」という風に語っている。そこから、田中正造の行動力によって足尾の鉱毒問題が大きな社会的関心となった様がうかがえる。事実、足尾鉱山からの鉱毒は、明治期の大きな問題となった。


田中正造は、遂に、住民が追われ水没する谷中村の水の上に立てた小屋に住み着いて村を守ろうとするのであるが、その拠り所は、
「谷中村を守ることが日本を守ることである」、
「谷中村を守れなければ日本が滅びる」という信念であった。
しかし、世間も政治も、このことを知らず、谷中村を守ろうとしない。そこで、彼が衆議院議員として政府に質問した題は、
「亡国を知らざればこれ即ち亡国の議について質問申し上げ候」
というものであった。


そして晩年、水没した谷中村で過ごした田中正造が、人生の最後に遺したものは、頭陀袋のなかの聖書と数個の小石だけであった。

足尾の鉱毒から村民を救うことが、御国を救うことだと思い決して長年奔走した田中正造は、万策尽きて、
明治天皇への直訴を決意する。


その為、田中正造は、
明治三十四年十月二十三日、衆議院議員を辞職する。
そして十二月十日、国会の開会式から退出され皇居に向かわれる
明治天皇の御列を日比谷街頭で紋付袴の姿で待つ。
そして、天皇の乗られる馬車(鳳駕)に走り寄った。


それを認めた護衛の近衛騎兵は、直ちに槍を田中正造に向けて構え田中を刺し貫こうと馬の腹を蹴った。
しかし、咄嗟の事態に驚いた馬が立ち上がり近衛騎兵が落馬して田中は刺殺を免れた。
田中は、妻に、直訴の日が死ぬはずの日だったと語っている。

現在、赤坂御所における園遊会に無知蒙昧の芥のような者が紛れ込んで、天皇陛下に手紙を渡そうと企てたことに関し、田中正造翁の名がでているので、
まことに、我が国における天皇への直訴とは、
明治期の巨人ともいうべき田中正造翁が、衆議院議員の立場を捨て去り草莽の微臣となって、命をかけて行おうとしたことであると申したく書きとめる次第。
この度の御国の権威を汚す軽佻浮薄な売名に関して、
田中正造翁の直訴を引き合いに出して語ることなかれ。