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心即理 - Wikipedia

心即理しんそくり)は、宋明理学における命題の一つ。心こそ理であるとする。中国、南宋の陸九淵や明の王陽明が定義した。


人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はない。よって、心は即ち理であると主張した。
朱子学のように心と性とを分別しないのが特徴である。朱子学では聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人であったが、陽明学では「満街の人みな是れ聖人」(街中の人すべてが聖人)というように、すべての人が本来的に聖人であるとし、その心の良知を静坐により発揮しさえすれば(致良知)、それが聖人の証であるとした。

32253−1 陽明学の哲学

「心は即ち理なり。天下また心外の事、心外の理あらんや」。

 この『心即理』論は、朱子学の「性即理」に対する強烈な反対命題である。朱子学の『性即理』は、外界の事象の客観的存在を認め、我が心にも外界の事物にもそれぞれの「理」があるとして、知を極めて人格の完成を目指すためには、単に内なる理だけでなく、外なる事々物々の理をも極め尽くさねばならない、としていた。云うなれば、穏当常識的な唯物論的な世界観を持っていたということになる。


 これに対し、王陽明は、朱子学の『性即理』論の客観主義観の否定に動く。

外界の事象の存在を否定したものではなく、『心即理』を通じて初めて意味を持つと主張しているように見える。

 『書経』に、『人心これ危(あや)うく、道心これ微(かす)かなり』。これに対し、王陽明は次のように答えた。「心は一つである。まだ人為的なものが雑っていない状態は、これを道心といい、人為的なものが雑った状態は、これを人心というに過ぎない。つまり、人心が正しさを得た場合が道心であり、道心が正しさを失った場合が人心なのであって、もともと二つの心がある訳ではない」。ここから、「心は即ち理なり。天下また心外の事、心外の理あらんや。(心即理)」とした。

 ある時、弟子の一人が「花木などは、深山の中で、自然に咲き自然に散ってゆきます。我々の心とどうしてそれが関係ありましょうか」と問うた。王陽明は次のように答えた。「君がまだこの花を見ない間は、君にとっては、この花は存在しなかったし、この花も君の心と一緒に静寂していた。しかし君がここへ来て、この花を見たとき、この花の色はたちまち明るくはっきりとしたであろう。つまりこれでこの花が君の心の外に在るものではないとということが分かるではないか」。

 「身の主宰はすなわち是れ心」。

「役者が舞台の上でやってのけた親孝行の仕草は、その外面に現れた行為−心を離れた外的事物だけを見れば、本当の孝子の行為と相違は無いとしても、そこにはいささかの道徳的価値もない。道徳的価値を得るのは心だけであり、その心を外にして道徳的価値を有するものはあり得ない」、「諸君は、私の『立言の宗旨』(主張の根本主旨)を、よく認識してくれなくてはいけない。私が今『心は即ち理である』というのは、如何なる意味かといえば、世の中の人が心と理を分けて二つのものとしたが為に、いろいろの弊害を生じているからである。例えば、五覇(外敵を打ち払い周の王室を尊ぶことを名目として天下に覇を唱えた斉の武公以下5人の諸侯)にしても、世の中の人は往々彼らの行動を賛美し、見せ掛けが立派であることだけを問題にして、それが彼らの心とは全く関わりの無いことを知らず、心と理を分けて二つのものとした結果、その流弊が偽善的な覇道となってしまったことに気がつかない。だから私は『心すなわち理である』と説き、心と理とが一つであることを知らせ、心の上で工夫を凝らし、義理を外に求めることの無いようにさせたい、と思ったのである。これがつまり王道の真髄であり、私の『立言の宗旨』なのである」。

 王陽明は、性(心の本体)はもともと至善で、善もなければ悪もないけど、我々がそれを現実の行動に発揮させようとする場合には、善ともなり得るし、悪ともなりうる。挙句の果ての結果だけを考えれば、性は善だとか、いや悪だとか決めこまなければならないことにもなるが、実のところは性は只一つのもので、あれやこれやの性がある訳ではない。そのことを次のように言っている。「性が一つということは、眼が一つというのと同じである。同じ眼が、時には喜ぶ眼つきになることもあり、怒った眼つきになることもあり、じっと物を見つめる眼つきもあれば、それとなく物をうかがう流し目もあるけれど、所詮は一つの眼に他ならない。怒った時の眼だけを見て、喜ぶ眼は無いといったり、物を見つめる時の眼だけを見て、物をうかがうときの眼はないといつたら、一つの面にだけ拘泥した見方で、それが誤まりであることは明らかである」。我々は、人間の性というものを、派生的・現象的な面からではなく、そのもともとの状態で捉えなければならない。

 ある時、陽明は何人かの弟子を前にして次のように諭している。陽明「そなたは、心のどこかに天理があると思って、それを求めようとしているが、それは却って『理』に拘っているのだ。そこのところを悟らなければならない」。弟子「どうすれば良いのでしょうか」。陽明「良知を致すこと、これに尽きる」。弟子「どのようにして致すのですか」。陽明「そなたの持っているあのたった一つの良知こそ、そなたが則るべき大事な物差しなのだ。君の意識や念慮が何かに向けられる場合、それが是であれば是、非であれば非と見分ける良知の働きは、いささかのごまかしも許さない。だから実際に良知の命ずるままに行動してゆけば、善は保たれ悪は無くなるであろう。

ある時、陽明は何人かの弟子を前にして次のように遣り取りした。王「人は誰でも胸中に、それぞれ一人の聖人を宿している。ただ自分でそれを信じようとしないから、それが埋もれてすっかり見えなくなるのだ」。

ある時王陽明は、畑に生えている穀物を眺めながら、「どれだけかかったのか知らないが、よくここまで成長したものだ」と語った。弟子が「何よりも根があればこそです。学問をするにしても、根さえしっかりしていれば、必ず進歩するものなのでしょうね」と相槌をうったところ、「人間であるからには、根の無いものはない。良知こそそれである。これは天が植えてくれた素晴らしい根で、生き生きと息づいてやむときが無い。ただ、私欲にとらわれて、この根を損なうので、成長できなくしてしまうのである」。

これを西洋哲学的に分析すれば、陽明学の『良知』とは、近代ドイツ哲学に云うカント、ヘーゲルらの『理性』に該当しているのであろうか。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131121#1385030219
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