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忠臣蔵から 靖国について私の考え

義理と人情、武士の生きざまを描いた仮名手本忠臣蔵では見ることのできない「揺らぎ」を描いたのが、平田オリザさんが書き下ろした演劇「忠臣蔵」です。傑作でした。


(以下、ネタバレがあります)
芝居は、浅野内匠頭の家臣二人が書類の処理をしているところから始まります。主君の刃傷沙汰を知り、二人は驚愕します。そこに次から次へと現れる家臣たち。主君の切腹、お家断絶を知り、動揺が走ります。やがて、井戸端会議風の議論が始まります。路頭に迷う自らの身を案じる者、幕府に抗議をすべく籠城を唱える者、仇討を果たすべく討ち入りを主張するもの。家臣たちの議論がまとまる様子はありません。


関ヶ原の合戦が終わって100年。家臣たちは武士ではありますが、戦いを知りません。剣道の稽古はしていても、日常は役人として働いているわけですから、さもありなん。討ち入りに現実味はありません。


そこに現れたご家老・大石内蔵助に家臣たちの目は集まります。ところが、この内蔵助、家臣たちの発言を聞くだけで、何ら具体的提案をする様子がありません。議論は再び行ったり来たり。歌舞伎のそれと違って、内蔵助に決断力はありません。


討ち入りに成功したら武士としての評価が上がり、他家での仕官の確率が上がるという家臣の発言をきっかけに討ち入りが急浮上します。空気を察知した内蔵助が、有志による自主的討ち入りを提案し、何とそれが結論となります。


我々の会議も、時として侃々諤々の議論より空気が結論を支配することがあります。オリザさんの「忠臣蔵」は、日本人の特質を実に巧妙に描いた作品です。オリザさんは、愛情を持ってその姿を描いていたのか、危機感を持って描いたのか、そこは定かではありません。私は、そうした日本人の、よく言えば「しなやかさ」、悪く言えば「優柔不断さ」が嫌いではありません。


しかし、太平洋戦争もこうした空気が支配した結末だったとしたら、こんなに罪深いことはありません。一般人ならまだしも、政治家が重要な決断を行う場合、空気に支配されるようなことがあってはなりません。

安倍総理の中には、この戦争責任を正面から認めたくないという思いがあるのではないかと、私は感じています。それは、東京裁判そのもの、そしてサンフランシスコ平和条約から始まった戦後の国際秩序を否定することにつながります。中韓はもちろん、米国も含めた多くの国が総理の今回の判断に疑問を呈しているのは、「戦後レジームからの脱却」を唱えてきた安倍総理のこれまでの言動に対して、戦後の国際秩序に挑戦しているのではないかとの疑問を持っているからだと考えます。

総理の靖国参拝以上に、私たちが留意すべきは、1979年にA級戦犯合祀が判明してから、天皇陛下が一度も靖国参拝されていないという事実です。命をささげた英霊の多くが最も望んでいたであろう陛下の参拝が途絶えたままです。陛下に戦争責任が及ぶことを恐れていた多くの戦争責任者たちは、このような事態を望んでいたでしょうか。

明治以降のわが国の歴史的な経緯から見て、靖国神社は英霊の慰霊の場としてふさわしいところです。新たな追悼施設をつくるという議論がありますが、靖国神社に代わる場にはなりえませんので私は反対です。戦争遺族を持つ私は、靖国神社に個人として行きます。ただ、静かに参拝できる時期を選び、戦争責任者とは区別して、国のために命を落とした人々に手を合わせることにしています。

政治家は時として重大な決断を迫られます。だからこそ、世の中の空気に左右されることのない見識と胆力が必要です。また、その重大性に鑑みれば、靖国を巡る戦争責任の問題からも逃げるべきではないと私は思うのです。

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