【論点8】集団的自衛権 “自制”だけで平和国家と胸を張れる時代か?「集団的自衛権」を議論する前に考えるべきこと――山口 昇・防衛大学校教授|日本と世界の重要論点2014|ダイヤモンド・オンライン
筆者はこれに対して、憲法や法令を巡る議論は抽象論であってはならないこと、また、この問いに対する答えにいたるまでに辿るべき議論の道筋があるということを指摘した。
すなわち、まず国家として目指すべき方向や目標を明らかにし、次にその目標達成のために採るべき具体的な施策、言い換えれば日本として何をなすべきか、また日本人として何をやりたいのかという点を議論するべきだ。その上で、それらの施策を実行するために、既存の政策や法制の枠組みを変える必要があれば、それを考えるというのが、正しい道筋ではないだろうか。
日本にとってきわめて重要な施策があり、その実行のために現行の法的基盤を変更する必要があるとすれば、はじめて憲法解釈の変更を含む議論が意味を持つ。この道筋は、日本の国家としての姿に関わるものであり、具体的でかつ深く、また国民的な広がりを持つ議論を経て結論を得ることが不可欠である。
先般発表された「国家安全保障戦略」のなかで言及された「国際協調主義に基づく積極的平和主義」という理念は、この道筋の第一歩、国家としての目標のひとつとして示されたものである。
次に必要なことは具体的にどのような施策を講じるかという政策論、ついでその政策を進める上で必要な法的な基盤に関する議論である。
そもそも、自衛権とは具体的にどのような権利なのだろうか。国際社会において国家の自衛権が真剣に議論されるようになったのは19世紀のことである。
1837年、当時英国領であったカナダと米国との国境を流れるナイアガラ川で、英国軍が米国領内で米国の小汽船カロライン号を攻撃した。この行為を巡って米国と英国との間で、その行為の正当性と、自衛を目的とした正当性を成立させる要件とが議論された。その後、このときの要件が国際法上の自衛権行使に関する考え方のひな形となった。
その頃、英領カナダでは独立を求める反乱が起きており、このカロライン号が反乱勢力を支援するために使われていたことが背景にあった。英国は、米国領内に軍隊を送り、この小汽船を襲撃して乗員十数名を殺害し、同船を破壊した。その上で、その行為について、自衛権の行使を目的とした正当なものであると主張した。
英国との交渉にあたったウェブスター米国務長官は、英国の主張に対して、武力の行使を自衛のためとして正当化するためには、「(1)目前に差し迫った重大な自衛の必要性があり、(2)手段の選択の余裕なく(以下、略)」、また(3)その手段は(自衛の)「必要によって限定され、明らかにその限界内にとどまるもの」という条件を満たさねばならないとし、英国に対してこれらの点を証明するよう求めた(参照:田岡良一『国際法上の自衛権』)。
英国は、米国領土を侵害したことについて遺憾の意を表明するとともに、ウェブスター米国務長官の論理に即して正当性を説明した。これが、いわゆる「カロライン号事件」を巡る、「ウェブスター見解」と呼ばれる一般国際法上の自衛権行使の要件である。
この点に関する日本国政府の立場は、「憲法9条の下において認められる自衛権の発動としての武力の行使については、いわゆる自衛権発動の3要件((1)わが国に対する急迫不正の侵害があること、(2)この場合に他に適当な手段のないこと及び(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと)に該当する場合に限られている」というものである(参照:防衛省『防衛白書』各年版)。
この考え方は、少なくとも文言に限って言えばカロライン号事件以来の国際的規範に沿ったものである。しかしながら、何をもって急迫不正とするか、また、何をもって必要最小限度とするかといった点について国際的な合意がある訳でない。自衛権を巡る議論のなかには、いわゆる先制攻撃や武力攻撃にいたらない事態への対応を含めて自衛権を広くとらえる考え方から、現に武力攻撃を受けてからはじめて自衛権を行使すべきであるという極めて抑制的なものまで大きな幅がある。
わが国の場合、1945年以前のアジアに自ら戦渦をもたらしたという苦い経験から、極めて抑制的な姿勢を貫いてきた。日本が自衛権を行使する場合は、自国に対する侵害がなされた場合のみである。すなわち、日本は自衛権を国連憲章にいう個別的自衛権に限っており、集団的自衛権の行使を認めていない。
自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利に関しては、国際法上有してはいるが、この行使は憲法が認める最小限度の範囲を超すという考え方である。
冷戦時代においては、この集団的自衛権に関する自制はひとつの見識であった。
米ソ両国を頂点とする東西対立の図式にあって、米ソ間の戦争に巻き込まれるのを避け、また、米国がする戦争のお先棒を担ぐことを否定することによって、平和国家としての姿勢を貫くことができると考えられたからである。
冷戦が終焉して久しい今、この自制によって平和国家としての姿勢を保つことができるのだろうか。いま、日本はそれを問うてみる必要がある。
特に「国家安全保障戦略」が謳う「積極的平和主義」を全うしようとすれば、このことの重要性は増す。東西対立の消滅によって、国連を中心とする集団安全保障の可能性が高まったからである。
第二次世界大戦において日本と同様の立場にあったドイツは、ある意味で日本の対極といえるアプローチをとった。
ドイツ(旧西ドイツ)は、大戦における敵国であった米英仏を中心とするNATOに加盟することを想定し、連邦基本法においてドイツが相互安全保障のための国際機構に加入できることを謳った。また、その際に国際機構に供出される新生ドイツ軍に対する自国の指揮権が制限されることを勘案して、ドイツとしての主権が制限される場合があることを明記した。
NATOという国際機構のなかにある複数の国家による決定、すなわち集団的な意思決定に従うことによって、独善に陥るのを避ける方策であったとみることができる。日本が自国の防衛つまり個別的自衛権に限定することによって自制したのに対して、ドイツは国際的な枠組みの中に自国を封じ込めることによって自制したといえる。
日本は今、武力の行使を個別的自衛権に限定するということだけをもって、平和国家として胸を張ることができるのかという問いに直面している。アジアとヨーロッパ、冷戦初期と現在という差は大きいが、ドイツのアプローチからヒントを得ることはできよう。
2014年以降、安全保障戦略・政策を巡る議論を進めるにあたって、「集団的自衛権の行使を認めるか否か」という問題に短絡するべきではない。この問題は重要な論点のひとつであることは間違いないが、ここに行き着くまでの道筋を大切にしなければならない。
国家としての理想とする姿と、それを実現するために何をなすべきかといった根本的な問題を、順序だてて丁寧に議論することによって、国民的な合意を得ることが重要だからである。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140115#1389782719
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140114#1389696753