日本にとっては「福音」に 核を巡るイラン・米国和解の可能性が持つ意味|田岡俊次の戦略目からウロコ|ダイヤモンド・オンライン
1月20日、イランは欧米など6ヵ国と合意した核問題の包括解決に向け、その第一段階の措置の履行を開始した。この合意の履行が完了すれば、イランに対する米国やEUの経済制裁の全面解除や、米国とイランとの国交回復の可能性も出て来よう。石油をめぐる大国の利権争いの舞台となったイランの歴史を振り返ると、今回の合意の履行は「小型冷戦」の終了とも言える歴史的出来事だ。イランと友好関係を保ってきた日本にとって望ましい状況である一方、イスラエルのみならずサウジアラビアなど周辺諸国にとっては、また違った意味を持つことにも注意が必要だ。
イラン(旧名ペルシャ)は19世紀から北のロシア帝国の南下によってコーカサス地方を奪われ、南のインド(現在のパキスタンを含む)からのイギリス勢力圏拡大にもさらされていたから、日露戦争で日本が1905年に勝利を収めるとイラン人は喜び、日本を見習って近代化を進めようと立憲君主制を求める運動が起こり、皇帝もそれを認めて1906年に仮憲法が発布され国会も開設された。だが次の皇帝は封建思想の固まりで、1908年に軍に議会を包囲させ、砲撃を加え、議会を解散、憲法を破棄したため大反乱が起き、皇帝は退位し三権分立の立憲君主国となった。
その混乱のさなかの1907年8月、英露は協定を結んで、イラン北部はロシアの支配地域、南部はイギリスの支配地域と線を引き、英露軍が進駐した。だが第一次世界大戦中にロシア帝国は革命で崩壊したため、同大戦終戦の1918年にはイギリスがイランの大部分を占領する形になっていた。ロシアでは革命後に赤軍と白軍の内戦が起き、イランに逃げ込んだ白軍を追って赤軍がイラン領内に入ったが、英軍は有効な措置を取れなかった。そのときイランのコサック兵団の将校だったレザー・パフラヴィーが赤軍と勇戦して名をあげ、1921年2月に2500人の兵を率いてテヘランを占領して実権を握り、1925年に皇帝となり国名をイランに変えた。
その治世下でイランの改革は急速に進み、イランは過去の苦い体験から反露、反英だったから、米、独、日と親しく、第二次世界大戦が始まった1939年の輸入相手国はドイツ、日本、アメリカの順だった。イランは第二次世界大戦が始まると「厳正中立」を宣言したが、1941年8月25日にソ連軍と英軍は北と南から侵攻し、イランを分割占領した。レザー・パフラヴィーは退位を迫られ、イギリスは彼をインド洋のモーリシャス島に流し、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーを帝位につけ傀儡(操り人形)とした。イランは1943年9月にドイツに宣戦布告、終戦直前の1945年3月に日本に宣戦布告した。
第二次世界大戦後、ソ連軍、英軍はイランを去ったが、イギリスは石油権益を確保し続け、そのアングロ・イラニアン石油会社がイランに払う採掘の特許料の割合は、アメリカの石油企業がサウジアラビアに払う特許料よりはるかに低かった。
1951年に首相となったモハンマド・モサデクはフランスのソルボンヌ大学卆の法学博士で民族主義者、彼を首相に選んだ議会は第一次世界大戦以来のイギリスの占領、横暴に怒っていたから、イランは1951年3月15日、石油事業を国営化することを決定、アバダンの精油所を接収、英国人従業員に1週間以内の退去を命じた。
だがイラン民族主義者による石油産業の国有化が成功しては、米国の石油企業のイラン進出も難しく、他の産油国がイランの真似を始めると大変だから、アメリカも最終的にはイギリス側について反モサデクに回った。モハンマド・レザー・パフラヴィー帝(パフラヴィー二世)は親英派で、その親衛隊が1953年8月15日クーデターを起こしてモサデク内閣打倒を図ったが失敗、皇帝はイタリアに逃亡した。だが米軍人の軍事顧問団やCIAの影響を受けていたイラク軍の国王派が19日に2回目のクーデターを行ってモサデク内閣を倒し、モサデクはとらえられ、皇帝はテヘランに帰還した。1954年4月から米、英など8大石油企業の代表が米国が擁立したイラン政府と交渉、石油紛争は終結し、米国石油企業は英国企業の権益の大部分を奪うことに成功した。
アメリカは最大時4万人もの顧問団を送り込んでイランを指導していたとされる。石油権益と同時に、イランはソ連の一層の南下を抑えるために戦略上重要な地域でもあったためだろう。
石油収入と米国の指導によってイランが近代化、発展したことは確かだろうが、外国人の異教徒とその傀儡政権にイラン国民の多くが不満を抱くのは不可避だった。特に1973年の石油ショックで原油価格が約4倍にも急騰したため、アメリカでは「産油国の不当利得の還流」の方途が論じられ、武器の売り込みが強化された。その口車に乗せられ「中東の警察官」と自称して高価な戦闘機、戦車、大型駆逐艦などをアメリカからどしどし買い込んでいた皇帝パフラヴィー2世の知能水準を疑う声は、当時米国のジョージタウン大学で講師をしていた私の研究室を、日本について知りたくて訪れたイラン富裕層の留学生たちからも出ていた。
皇帝はCIAの助言を得て秘密警察サバクを組織し、批判者を弾圧、拷問、処刑も行ったから、ますます国民の皇帝と米国に対する反感が高まり1979年2月にアヤトラ・ホメイニ師を指導者とするイラン革命に到った。
米国の対外政策は「やり過ぎ」で失敗する例が多いのだ。
レーガン大統領は1980年9月22日イラク軍がイランに侵攻して始まったイラン・イラク戦争でイラクのサダム・フセイン大統領を支援し、日本は米国の要請に応じ、イラクに約7000億円の融資・援助を行ったが、湾岸戦争、イラク戦争により回収不能となった。
米国がイラン憎しの余り育てた猛犬が、近所の人に噛みついて回るのを始末するため、日本は巨額の金を出し「小切手外交」と米国から嘲(あざけ)られる破目に陥った。
こうした日本の失敗は、そもそも米国とイランの対立に起因する。もしイランの核開発問題が解決し、米国との和解が進めば、この35年間一貫してイランとの国交と友好関係を保ち続けた日本にとって相当なチャンスとなり得るだろう。少なくとも世界第3位、埋蔵量の10.1%を持つイランの原油と世界第2位、埋蔵量の15.7%を持つ天然ガス(ロシアの天然ガス埋蔵量計算は過大でイランが1位との説もある)が自由に輸出され、国際市場に出回れば原油、天然ガス価格は下がり、原発の稼働停止で燃料の輸入が急増して貿易赤字に苦しむ日本にとっての福音となるはずだ。
米国にとっても原油輸入価格が下がり、イランの経済が好転して米国製品の輸出市場が増えるだけでなく、シリアの化学兵器廃棄とあいまって、中東への軍事的関与の必要性が低下すれば、財政再建にも役立つこととなる。一方、原油、天然ガス価格が下がることはサウジアラビアなど他の産油国にとっては嬉しい話ではないし、米国、西欧諸国のイランへの敵対感情を煽って、それらを味方に付けてきたイスラエルにとっては特に苦しい情勢となる。イスラエルは今年秋の米国の中間選挙を前にユダヤ票や、巧妙な宣伝活動によって米国とイランの和解を妨げようと努めそうだ。その効果の程は日本の利害にとっても軽視し難い問題となりそうだ。