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【世界史の遺風】(99)阿倍仲麻呂 唐高官となった日本人 - MSN産経ニュース

 名からして誤解がありがちだが小野妹子はれっきとした男性である。7世紀初めに遣隋使として中国に派遣、「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を提出し、煬帝(ようだい)を不快にさせたという。


 それから百年余りが過ぎ、平城京に遷都したばかりのころ、数え16歳(19歳説もある)で遣唐留学生に任命されたのが阿倍仲麻呂。翌年の遣唐使に従って唐に渡り、太学(たいがく)(古代中国の官僚養成学校)に学んだ。中国文化が身になじんだのか、刻苦勉励のかぎりを尽くし、数年後にはなんと最難関の科挙にも合格したのだ。現地でも千人に一人しか及第しないほどの苛酷な試験だから、異邦人としてはすさまじい秀才だった。


 隋より前の中国は貴族の門閥がはびこり、特権を世襲化していた。その弊害を認めた隋朝は、個人の才能に即して官吏を登用する科挙の制度を定め、それは清代まで1300年間も実施された。時代によって重視される資質が異なるが、唐では文才を重んじる傾向があった。唐代でもなお貴族社会の嗜好(しこう)に合うものが高く評価されたからだろう。


 記録上、仲麻呂が最初に任官されたのは校書とよばれる書記官であった。書物の管理や高官の文筆を補佐する役目であり、知的で格式高いので希望者も多かったらしい。このころ唐人の友人の一人は、唐名で朝衡(ちょうこう)とよばれた仲麻呂をたたえる詩を詠んでいる(上野誠遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』角川学芸出版)。


 「万国の使者たちは、わが唐の天子おわします朝廷に馳(は)せ参じて集まって来るけれど、その中でも、東隅の日本からの道は一番遠い。


 おまえさん朝衡の凛々(りり)しさといったら、それは比べるものがないほどだ。そして、君は、今、気高きわが朝の皇太子さまにもお仕えしている。


 さらには、蓬山の裏すなわち朝廷にも出入りできる身分となって、花の都・洛陽の伊水の河畔をそぞろに歩いている。


 かの後漢の伯鸞(はくらん)が、父が死んだ後、さびしさにも貧しさにも負けることなく太学に学んだように、君も太学で学んでいたね。でも、夜ともなれば故郷・日本のことを一途に思っていたっけ」


 美貌の青年が異郷の大国でかくべつに出世しながら、なお望郷の念をおさえがたくしている姿がよく浮かび上がってくる。いつのころ詠まれたかは定かでないが、仲麻呂作として伝わる名高い一首は彼の内心を映し出している。


 「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」(古今和歌集

 官吏としての能力も文人としての才能も秀でた仲麻呂であるから、当時の名だたる文人名士からも目をかけられる。李白、王維などの著名な詩人たちも放っておかず、親密な交際を結んだという。


 16年目の33歳のとき入唐した遣唐使とともに帰国を願い出たが、許されなかった。それほど仲麻呂は人材として見込まれていたのであろう。その後、仲麻呂51歳の年に入唐した遣唐使とともに帰国することを上奏してやっと許可された。このとき日本から招待を受けていた鑑真とともに蘇州から帰国の途についたが、不運にも仲麻呂が乗った船は暴風に見舞われ、安南(ベトナム)に漂着してしまう。やっとのことで長安に戻った仲麻呂だが、またふたたび高官に任じられる宿命にあった。

 平城京が10万人にも満たなかったころ、唐の長安はすでに100万人の住民がいた。遣唐使使節団が、いかに国家の存亡にかかわる使命を背負って旅立っていたか。


 仲麻呂とともに唐へ渡った吉備真備(きびのまきび)も17年の留学の後に帰国し、日本の指導者教育の中核を担った。だが、仲麻呂には日本で公人として使命を果たす機会はなかった。


 地球の裏側まで十数時間もあれば往来できる現代、むしろ仲麻呂の「三笠の山」にこめられた思いは望郷の念ばかりではあるまいという気がする。