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【正論】業績稼ぎがはびこる大学の劣化 社会学者 関西大学東京センター長・竹内洋 - MSN産経ニュース

 宴席の教授たちによる事件の顛末(てんまつ)を聞いていて、ちょっとおかしいなあと思えてきた。


 というのは、剽窃という醜聞を酒の肴(さかな)にしているその場の教授連にみるべき研究業績がなかったからである。にもかかわらず、論文を書こうとも、自著を上梓(じょうし)しようともしていないように感じられた。件(くだん)の剽窃教授は、大学教授たるもの著書の一冊くらいあるべきという規範を内面化し、それがプレッシャーになったがゆえの逸脱行為とはいえるからである。


 剽窃教授は論外だが、なにも書かないから事件沙汰を免れているだけの無業績教授が放置されているのもかなりの問題だと思ったのである。ところが当時はこの教授連は例外ではなかった。昭和40〜49年の論文執筆調査によれば、教育学担当教員の3分の1(40歳代)、半数弱(50歳代以上)が10年間にわたって1本も論文を発表していなかったからである。


 それから約半世紀経(た)った。いまや大学教員は無業績教員で過ごすことができない時代になった。就職時や昇進時はいうまでもなく、事あるごとに研究業績が問われる。そのせいで、今の大学教員の研究業績を論文数でひと昔前と比べれば数倍になっているだろう。しかし、その実質はどうか。

 1990年代からはじまった大学改革以降、論文「量」を重視する業績主義が浸透した。その結果、大学や研究室紀要はますますお手軽系発表媒体になり、事態はむしろ悪くなってさえいる。

 剽窃は学問研究の〈積極的冒涜(ぼうとく)〉であるだけに事件とされ、措置が講じられる。しかし、〈消極的冒涜〉である「見せかけ学術論文」が事件になることは少ない。そのぶんこちらのほうはますますはびこる。

 このようにみてくると、冒頭にふれた、その昔の無業績教授が別様にもみえてくる。当時、よく言われていた「論文はやたらに書くべきものではない」という学問への畏怖ゆえの無業績だったかもしれないのである。