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ぼくらの「値段」は、資本主義のルールでこう決められている 教養として知っておきたい『資本論』のエッセンス|超入門 資本論|ダイヤモンド・オンライン

 前回のおさらいですが、使用価値とは「使用メリット」のことであり、価値とは「労力の大きさ」のことです。例えば、パンの「おいしさ」が使用価値であり、「作るのにどれくらい手間がかかったか」というのが「価値」でした。

「使用価値」とあわせて「価値」も持っていなければ商品にはなりません。たとえば、キャンプ場の近くに流れているきれいな小川の水が売れない理由がここにあります。山奥のきれいな小川の水は、健康に良さそうなお水ですね。ミネラルもたっぷり含んでいそうで、飲むメリットは十分にあります。


 でもそれを、すぐ隣のキャンプ場で売ろうとしても、間違いなく売れません。なぜか?「価値」がないからです。


 湧き出ている隣で売る「山奥のきれいな小川の水」には、ほとんど労力がかかっていません。ということは、相手(お客さん)もなんの苦労もせずに手に入れることができます。だからわざわざ買わないのです。

ただし、商品の値段を決めているのは「価値」だとマルクスは考えました。

 ただ、こう説明されると、ひとつ矛盾を感じます。効率が悪く長時間かけてつくった商品は、手際良くつくった商品よりも「価値が大きい」ということになってしまうのです。だとしたら、わざとゆっくり、無駄を多くして商品をつくれば、「価値が高い商品」ができ上がるということになります。

マルクスは、商品の価値の大きさは「社会一般的にかかる平均時間・平均労力」で決まるとしていました。


 商品をつくり上げるのにかかる手間や必要な労働量は個人個人で違います。ですが、商品の価値はそのような個別の事情によって決まるのではなく、その商品の価値は「その社会で平均的に考えて、必要な手間の量、時間の量」で決まるのです。

もちろん、「使用価値」がなければ、商品になりません。買ってもらえません。だから使用価値(商品のメリット)を追求するのは当然ですし、必要不可欠です。


 しかし、それは商品の一側面でしかありません。使用価値があれば(お客様にメリットがあれば)、問題なく会社が黒字になるかというと、そうではないのです。


 使用価値があれば、お客さんは買ってくれるでしょう。しかし、「高値で」とは限りません。お伝えしたように、商品の値段は「価値」が基準になって決まっているというのが経済の原則です。ですから、それをつくるのに労力がかかっていない(大した労力がかからない)と思われるような商品は、高い値が付かないのです。

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マルクスは、取引するものはすべて「商品」であると説きました。そう考えると、あなたの労働力も「商品」だということになります。

 ということは、「労働力の値段」も、商品と同じように決まっているということになります。つまり、ぼくらの給料は、商品の値段の決まり方とまったく同じように考えることができるのです。

だとしたら、みなさんの給料を決めているのは、「みなさんの労働力をつくるために必要な要素の合計」と考えられるのです。


 商品の価値は、商品を生産するのに必要な要素の合計です。つまりこれは、その商品の「生産コスト」です。同じように、労働力の価値も、労働力の「生産コスト」で決まるというわけです。

 では、その「労働力をつくるのに必要な生産コスト」とは何でしょうか? 人間が働くには、その仕事をする体力と知力(知識・経験)が必要です。労働者に体力と知力がなければ働いてもらうことができません。

 商品の価値は「社会平均的にみて必要な手間の量」で決まると説明しました。「世間一般で考えて、その商品をつくるには、これくらいの原材料や手間が必要だな」という量が、商品の価値になります。


 労働力の価値も同様です。労働力の価値として認められるのは、「世間一般で考えて平均的に必要な費用」だけです。

 労働力の価値には、その仕事をするのに必要なスキルを身につける労力も含めて考えられていると説明しました。ということは、そのスキルを身につける労力が大きい仕事は、労働力の価値が高くなり、よって給料が高くなるのです。

 なぜ、医者の時給は高いのか? それを「医者の仕事の方が、一般的な仕事よりも難しいから」「人が生きていくための重要な仕事しているから」と考えてはいけません。


 実際に医者の仕事は大変ですし、難しい業務だと思います。内科、皮膚科、小児科、眼科、どれをとっても人が健康に生きていくための重大な仕事です。


 しかし、「高度だから、重大な仕事だから給料が高い」のではありません。もし「難しい仕事」にお金が支払われるのであれば、サーカスの団員はもっと高給取りであっていいはずです。「人が生きていくための重大な仕事」に高いお金が払われるのであれば、介護士の給料も同程度に高くなるはずです。

 医者の給料が高いのは、医者の仕事をこなすために、膨大な知識を身につけなければならず、そのために長期間準備をしてきたからなのです。医者になるまでの準備が大変で、みんながそれを理解しています。だから給料が高いのです。

 そう考えると、単純作業者の時給が少ないのは「必然」だといえます。「体力的にキツい」とか「毎日長時間労働」とかは関係がないのです。その「労働力」をつくるための原材料費が少ないため、給料が少ないのです。

 では、「労働力の使用価値」とは一体何でしょう? 労働力の使用価値は、「労働力を使ったときのメリット」です。要するに、「会社が、ぼくら労働者を使ったとき(雇ったとき)のメリット」が労働力の使用価値なのです。


 そして、会社にとってのメリットとは、もちろんぼくらが稼ぐ利益です。

 ここで考えてください。使用価値は、その商品の値段に直接的な影響を及ぼしませんでした。使用価値が高いものは、需要と供給の法則にしたがって多少値段が上がります。


 しかし、2倍の使用価値があっても、値段は2倍にはなりません。上がるのはたとえば「1.2倍」くらいだったりするのです。労働力についても同じことが言えます。これを給料に置き換えると、「2倍の成果を出しても、給料は1.2倍くらいしか上がらない」となります。

 むしろ、「労働力」というものが「商品」になるためには、使用価値があることが絶対条件です。成果を上げられない労働者は、使用価値がないので、企業に雇ってもらえません。成果を出すことは不可欠です。


 使用価値が上がれば、「その商品がほしい!」と思う人が増えます。一般の商品で考えれば、使用価値があれば、消費者に選んでもらえます。そして、継続して買ってもらえます。


 これを労働力で考えると、「労働の使用価値があれば(その人が優秀で、企業に利益をもたらせば)、企業に選んでもらえる、継続して雇ってもらえる」となるのです。


 お気づきでしょうか? 労働者として優秀になり、企業に利益をもたらすことで得られるのは「雇い続けてもらえること」なのです。給料が上がることではありません。2倍の成果が出せるようになっても、給料は2倍にはなりません(先ほどの話の通り、1.2倍くらいにはなるかもしれませんが)。

 これは机上の空論ではありません。現実にこうなっているのです。厚生労働省が発表している統計(平成25年版賃金事情等総合調査)にそれが表れています。

「業績・成果給は4.9%だが、その上の『職務・能力給』が31.3%もある。やはり労働者の能力(使用価値)が問われているのでは?」と感じるかもしれませんね。


 ですがそれは、言葉の意味を誤解しているだけです。「職務・能力給」とは、労働者が上げた成果ではなく、社会人としての基礎的な経験と、社会人としての基本業務をこなす能力を指しています。


 たとえば、仕事をするうえで必要な礼儀、言葉づかいからスケジュール調整能力、段取り力、説得・プレゼン力、その他社会人として必要な知識や基本となる経験を「能力」と定義し、それに応じてお金を払っているということなのです。


 そして、その基礎的な経験や社会人としての基本業務をこなす能力は、「社会人歴に比例して身につく」と考えられています。このような能力は仕事を通じて、経験を通じて蓄積されていきます。通常、経験を積めば積むほど増えていきます。

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 ぼくら労働者の給料は、「労働力の価値」で決まっています。つまり、労働力を再生産するために(明日も働くために)、必要なお金を給料としてもらっているわけです。


 とすれば、月末になると銀行残高がなくなっているのも、まったく不思議ではありません。その1ヵ月間、生活して、仕事をするために必要なお金を給料としてもらっているので、月末になったらお金がなくなっているというのは、むしろ「当たり前のこと」とも言えます。

マルクスは、「賃金を決定する際の、これだけは外せない最低限の基準は、労働期間中の労働者の生活が維持できることと、労働者が家族を扶養でき、労働者という種族が死に絶えないことに置かれる」(『経済学・哲学草稿』第一草稿・一.賃金)という言葉を残しています。


アダム・スミスによれば、ただの人間として生きていくこと、つまり、家畜並みの生存に見合う最低線に抑えられている」とも言っています。(同)年齢によらず、社会人経験によらず、みんな「生きていくために必要な最低限の給料」しかもらえないのです。

 このしんどい状況を打開するために何をしているかと言えば、ある人は、より成果を上げるために、長時間労働します。またある人は、スキルアップのためといって、資格を取得しようとします。


 ですが、これらは解決策になりません。

まず、より成果を出せたとしても、さほど給料は上がりません。給料は、労働力の「使用価値」ではなく、「価値」で決まっています。そのため、使用価値(会社にとってのメリット)を上げても効果は薄いのです。

 では、資格を取得するのはどうでしょうか?これは、さらに”筋が悪い努力”です。というのは、労働力の「価値」の視点が抜けている可能性が大きく、また「使用価値」の視点については、完全に抜け落ちているからです。


 資格を取ろうとするのは、資格を取りさえすれば、給料が上がると思っているからです(少なくとも、昇給の手助けになると思っています)。ですが、給料の金額は、その仕事を続けるのに必要なものだけを考慮しています。


 仕事にまったく関係ない資格を取っても意味がありません。また、本来は、この仕事に必要な知識やスキルを身につけようという発想で勉強をすべきです。「資格を取りさえすれば」と感じている時点で、順序が逆です。それでは、資格を取得することが目的になり、それが仕事に使えるか、つまり自分の「労働者としての使用価値」を上げるかどうかはわかりません。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140602#1401706752