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【FRBウオッチ】最終バブル崩壊へ-100年の歴史が映す未来 - Bloomberg

米国の中央銀行システムを統括する連邦準備制度理事会FRB)は今月10日、業務開始から100周年を迎える。前回号では歴代FRB議長がバブル膨張と崩壊を繰り返してきたことに触れたが、最終編では「なぜこうした過ちが繰り返されるのか」という問題意識から過去1世紀を振り返り、現在から未来を映し出す手法をとる。


FRB創設のきっかけとなったのは、1907年の株価暴落に伴う銀行取り付け騒ぎ(金融パニック)だった。当時は中央銀行が存在しなかったため、JPモルガン商会(現JPモルガン・チェース)頭取のジョン・ピアポント・モルガンが陣頭指揮を執り、ウォール街の民間銀行が資金を融通するための決済証書(Certificate)を発行して急場をしのいだ。


金融パニックは景気拡大の最終局面から後退期に陥る中で株価のピークアウトとともに頻発し、その悪影響は米国経済の成長とともに大きくなっていった。1907年金融パニックの混乱を通じて、民間銀行ではもはや手に負えないことが明らかになってくる。実際、同年のパニック収拾で、ウォール街財務省に2500万ドルの公的資金注入を仰いでいた。


しかし、財務省の資金注入には限界があり、正貨発行権を有する中央銀行の創設が焦眉の急になってきた。常に混乱の中心にあったウォール街関係者は危機感を募らせ、ジョン・ピアポント・モルガンが主導して政府・議会と協働で創設されたのがFRBである。現在の米中央銀行は民間の加盟銀行が出資し、FRBや地区連銀の理事会に民間銀行家が名を連ねているのもその名残である。


2007年金融パニック


1907年金融パニックからちょうど100年が経過した2007年8月9日。サブプライム(信用の低い個人)向け住宅ローンの破綻に伴う金融パニックが発生。当時のバーナンキFRB議長が采配をふるった。


2007年金融パニックは、サブプライムローンを原資とする不動産担保証券MBS)に投資していた仏BNPパリバのファンド3本の解約停止が引き金だった。米国の投資銀行MBSを全世界にばらまいていた。同ファンドの凍結をきっかけに欧米の短期金融市場が大混乱に陥り、ニューヨークの短期金融市場ではフェデラルファンド(FF)金利が6%に跳ね上がった。この時は欧州中央銀行(ECB)とFRB、日銀の資金供給で乗り切ったが、住宅金融バブル崩壊の序章に過ぎなかった。


振り返ってみると、この金融パニック2日前の8月7日に開かれた米連邦公開市場委員会(FOMC)の定例会合では、「インフレが期待通り鈍化しないリスクが引き続き政策面で最重要の懸念事項である」(声明文)と判断されていた。


時代錯誤


このように米金融当局は当時、インフレ抑制を最優先課題と認識していたため、金融パニック対応でも後手に回っていた。同日のFOMC会合の参加者の手元にあった07年6月の消費者物価指数(CPI)は前年同月比2.7%上昇と、バーナンキ議長が適切な物価上昇率と考える2%を優に超えていた。


バーナンキ議長はインフレを2%で安定させれば最大限の雇用が創出されるという固定観念に囚われていたため、同年8月15日に金融パニックを受けて開いた緊急FOMC会合でも、政策の要であるFF金利の誘導目標を据え置いた。その代わりにFF金利政策金利の座を譲った公定歩合を引き下げるという時代錯誤に陥っていた。


FOMCの機動力を欠いた政策も影響して、米国経済は07年12月に大恐慌以降で最悪といわれるグレートリセッション(深刻な景気後退)に突入する。それから8カ月後、08年8月のFOMC会合で「次の政策変更は金融引き締めになる可能性が高い」と引き締めバイアスを明確にしていた。7月のCPIが前年同月比で5.6%上昇に加速するなどインフレ圧力が高まっていたことが背景だった。


景気後退とバブル崩壊、類似点


景気後退は一直線で進むわけではない。実質国内総生産(GDP)は2008年第1四半期に前期比年率で2.7%のマイナス成長に陥った後、第2四半期には2%のプラス成長に転じていた。株価も同様である。ダウ工業株30種平均は07年10月9日の高値から08年3月10日までに17%下落していたが、JPモルガン・チェースによる投資銀行ベアー・スターンズ救済合併が好感されて、5月には前年10月のピーク比7%安まで戻す。


このように実体経済・資産バブルとも収縮の初期過程は段階的かつ緩やかなペースで進むため、政策当局者、大部分の市場参加者とも景気後退とバブル収縮に気付いていなかった。景気先行指標とされ米製造業受注統計の中でも最重要項目である航空機を除く非国防資本財(コア資本財)受注額も、景気後退入り5カ月後の08年4月に前月比5.5%増加して過去最高水準を更新していた。インフレも折からの原油相場の急騰を背景に加速していた。それにしても金融当局者がリーマン・ショックが起こる1カ月前というタイミングで、利上げを念頭に置いていたとは驚きである。


景気遅行、過剰反応


金融政策は本来、実体経済の先を予測しながら決断していくものだが、近年のFOMCはせいぜい良くて景気と一致、多くの場合は遅行してきた。この時はCPIが08年7月でピークアウトしていた。CPIはその後、急速に勢いを失い、同年12月には0.1%上昇、09年3月にはマイナス0.4%とデフレ圏に突入する。ここでバーナンキ議長は再び過剰反応してしまった。同議長はかつて日銀にアドバイスした量的緩和の第1弾(QE1)を実行に移したのだ。


バーナンキ議長は大学教授を務めていた当時、1930年代の大恐慌を研究し、当時のFRBが29年の株価大暴落の後、十分な金融緩和を実行しなかったことが、原因だったと結論付けた。この研究成果に基づいて導き出されたのがバブル崩壊の後は大量の資金を注入してデフレを回避すべしという政策だ。バーナンキ議長はプリンストン大学教授時代に日銀に対して、ケチャップでもなんでも購入して市場に資金を供給すべきだと語っていた。


経済は時と共に変容する。80年前の米国は製造業の興隆を背景に人間に例えれば青年期の勢いがあった。29年の株価大暴落の後、物価は一時的に前年比で25%も下げ失業率も25%に達し、米経済は恐慌に陥るが、33年7月には製造業生産指数が前年同月比で68%も反発していた。その後第2次世界大戦を経て、米国は世界最強の経済大国に成長。その通貨ドルは世界の基軸通貨の地位を確立した。


大恐慌マニア」


バーナンキ教授が指摘していたように当時は金融政策の支援がなかったものの、2009年から現在に至る景気拡大局面よりずっと急速に成長することができた。同教授の学説が現在の米国経済に適合不良を引き起こすのは、もっぱら大恐慌の現象面に注目し、その後の復興の意味を分析しなかったからではなかろうか。


バーナンキ教授は著書"Essays on the Great Depression"の冒頭で、「私は大恐慌として知られる1930年代のめまいが起きるほど怖い景気後退の研究を何度も行ってきた。私は自分を大恐慌マニアだと思っている。大恐慌マニアがなぜもっと多くないのか私には不思議だ。大恐慌は当方もなくドラマチックなエピソードなのに」と記述している。


こうしてバーナンキ議長は09年3月に「めまいが起きるほど怖い景気後退」を二度と起こすことがないにようにするため、大規模資産購入(LSAP)を本格化させたのである。しかし高齢化とともに人間の基礎代謝量が落ちるように、米経済の潜在成長率は低下しつつあり、大量の資金投入は実体経済には向かわず、もっぱら資産価格を押し上げることになってしまった。


危機、 岐路


大暴落前のダウ平均の動きと現在を比べてみる。ダウ平均は大暴落直前の1929年9月3日にピークを付けたが、そこに至る約35年間の上昇波動で1230%高を記録していた。一方、1980年を基点とする今回の約35年にわたる上昇波動では、2160%高となっている。


実体経済がなお青年期にあった20世紀初めの上昇局面に比べ、高齢期から老齢期に向かっている今回の上昇局面の方が2倍近い上昇率を示している。経済の基礎代謝量の低下に伴い、金融緩和で膨らんだ資金が実体経済より資産市場に流れていることを物語っている。


スペイン、オランダ、イギリスと過去の帝国を振り返ってみるといずれも軸足を金融に移動した後、衰亡の道をたどってきた。米帝国はこの歴史の流れを覆すことができるだろうか。それは「最終バブル崩壊」後の危機を乗り越えることができるかどうかにかかっている。危機(Crisis)の語源はギリシャ語のkrisis(岐路)である。米国は構造改革へと舵を切ることができるだろうか。米国経済の再興はその決断いかんにかかってこよう。 

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140801#1406890532