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江戸開城 - Wikipedia

勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。もし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である。1812年にナポレオンの攻撃を受けたロシア帝国がモスクワで行った作戦(1812年ロシア戦役を参照)を参考にしたというが、それとは異なりいったん火災が発生した後はあらかじめ江戸湾に集めておいた雇い船で避難民をできるだけ救出する計画だったという。勝は焦土作戦を準備するにあたって、新門辰五郎ら市井の友人の伝手を頼り、町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、非人頭の家を自ら回って協力を求めたという。これらは後年の勝が語るところであるが、勝は特有の大言癖があるため、どこまでの信憑性があるかは不明である。しかし、西郷との談判に臨むにあたってこれだけの準備があったからこそ相手を呑む胆力が生じたと回顧している。

西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、進撃を中止した背景には、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。

東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。しかし、パークスはナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激昂し、面談を中止したという。

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