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Browse365(精神世界本の拾い読み)出口王仁三郎の神の活哲学 〜 十和田龍・著  お茶の水書房

  霊界は宇宙の実体界で、現界は霊界の移写、つまり映像の世界である。唯物論者は、霊界とか天国は人間の想像力の産物、幻想だという。つまり霊界は、現実の世界を頭の中で移写したものだと逆向きにとらえる。霊界を見てきた人がいるといえば、「そりゃ幻覚だ」で片づける。
  王仁三郎よれば、霊界と顕界(現界)の間は相応の理によってつながる。つまり現界にあったことは霊界にあり、霊界にあったことは現界にそれ相応のものがあるという。
  「現界すなわち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神(かんながら)の順序によって相応なるものがある。また人間の万事と天界の事物との間には動かすべからざる理法があり、またその連結によって相応なるものがある」(『霊界物語』48巻10章「天国の富」)
  王仁三郎によれば、自然界とは「太陽の下にあって、これより熱と光を得る一切の事物」だ。この自然界は、総体の上からも分体の上からも、ことごとく霊界と相応している。だから自然界の有力因(原動力)は霊界にある。
  神は瞬時も休むことなく活動しているが、それは目的があるからだ。目的のことを、王仁三郎は「用(よう)」と表現する。用の字義は「はたらき」で、働きには必ず目的がある。その用の結果が実現する。 たとえば日常の細々とした用の積み重ねが、家庭を形づくり、生命をはぐくむ。虫は虫、鳥や獣はそれなりのやり方で用を実現する。この世に存在する限り、一つとして不要のものはないという。

  あらゆるものに内面と外面があるように、人間の精霊の想念にも内面と外面があり、それを内分と外分という。内分は霊魂そのものの志すところ、想うところで、いわば真実の心、偽りのない本心のことである。外分は現界の事物に影響を受けた肉体的感覚、記憶、知識、その知識をもとにした言語、動作などのことで、表面の心、本心を覆い隠す心といってよい。

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