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ハイデガー哲学の根本問題 - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科

われわれは20世紀という時代を、近代文明に対する批判的省察のさまざまな潮流の出現と、そうした近代批判を背景とする対抗運動の失敗の歴史として捉えることができる。このような対抗運動は、近代の本質をその帰結にすぎないものと同一視し、問題の真の所在を捉え損なってしまうため、真の対抗となり得ていない――こうしたことを指摘し、「存在の問い」に基づいた近代性の徹底した反省によって、近代批判を正しい軌道に乗せようと試みたのが、20世紀のドイツの思想家マルティン・ハイデガーである。彼によると「近代の本質的な現象」――近代の学問、「機械技術」、「美学」の勃興、人間的行為を「文化」として捉えること、「神の消え去り」――は、形而上学に基礎付けられたものとして理解されなければならないが、この視点が、しばしば個々別々にしか取り上げられないそれら諸現象をその相互の連関において見渡し、それらを全体として克服することへの展望を切り開いている。この「存在の問い」の立場に立脚した近代批判の原理的可能性についての考察、こうした意味での「近代批判の批判」という性格が、ハイデガーの近代についての言説を現代思想における通常の近代批判から分け隔てる点だと言える。
われわれの論文では、ハイデガーの思想をまさにそのものたらしめるこの「存在の問い」の所在を明らかにすることが目指されている。「存在の問い」はそれ自身のうちに多様な構成的契機を含み、さらに言うと、そうした契機の連関そのものとして存立する。したがってその所在を探るわれわれの試みは、「存在の問い」の持つ諸契機を、その分節構造に即しながら表立たせていく作業となる。論文は次のような構成を持つ。
第1章「存在の問い」の導入。ハイデガーによると、これまでの西洋哲学においては、彼が「存在」と呼ぶものは問われてこなかった。それゆえ存在といった次元の主題的な取り扱いに先立って、その所在そのものが示されなければならない。このことは『存在と時間』の既刊部分で、人間の存在者との関わりの根底に潜む「存在了解」、すなわち「超越」に注意を促し、それを分節化しつつ表立たせる「現存在(人間)」の存在論(実存論的分析論)として遂行される。こうした存在の次元の開示にあたってハイデガーが依拠する方法が、現象学である。

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