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シルヴァン・旭西・ギニャール - Wikipedia

スイス生まれの筑前琵琶奏者、音楽学者。


アイデンティティに揺れた20年 長い歴史の琵琶と向き合う | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉:日経BPオールジャンルまとめ読みサイト

 父は著名な画家、母は文化評論家、そして、ピアニストだった祖母という環境でスイスに生まれ育った、筑前琵琶奏者のシルヴァン旭西ギニャールさん。7歳のころから、祖母に教えてもらってピアノを始めた。やがて本格的にレッスンを受けて、高校が終わるころまでは大好きな趣味として続けていた。


 音楽学をやったらどうかと祖母に提案されて、大学で音楽学音楽史を専攻する。


 芸術一家の中で育ったが、意外なことに4人いるきょうだいの中で芸術系に進んだのはギニャールさんだけだった。


 「だから、父が喜んだんですよ。兄は政治家、妹は数学者、弟は眼科医と別の世界。私が10歳くらいのころは絵が上手だったので、父は私が画家になるかもしれないと期待したけど、音楽の方に。それでも、喜んでくれました」

 大学では音楽学をメインに、サブで美術史、日本学、民族音楽学を専攻。


 「音楽の学者を目指そうと決めたとき、ショパンを軸にすることは決めていたけれど、それだけで定年までやるのは面白くない、ショパンとは違う、ヨーロッパ以外の音楽も何かやりたいと思ったんです」


 東洋音楽史を教えていた前田昭雄氏の影響を受け、日本の音楽を専門とすることに決める。そして、文部省(当時)の奨学金で日本に留学することになる。


 その一方で、ショパンの研究も進め、「ショパンのワルツ」研究で博士号の論文を書いた。

 それ以来、毎年のように、帰る度に自宅でも演奏した。しかし、父はなかなか納得する様子はなかった。父に認めてもらえないということもあり、自分の中にも演奏にしっくり来ないまま、練習を積み、演奏活動を重ねていた。


 「本当にそれがあなたですか。ただのエキゾティックな遊びではないですか」と、自分の中で問いかけながら。


 しかし、4年ほど前、父が亡くなる前に帰国した際、父に乞われ、演奏した。ギニャールさん自身も、長く自分のアイデンティティと琵琶の音楽の間で悩んでいたが、この時はもう、自分の中では吹っ切れていた。


 「『那須与一』だったか、ずいぶん元気にやったんです。そうしたら、父は『今、分かった。これはあなたの芸だ、あなたのものだ』と言ってくれた。『これがあなたの居場所。あなたがやろうと思っていることが、今、完全に分かりました』と。うれしかったですね」

 「そう、それは良かった。『あなたの芸術は、体と精神が一つになって完成されている。それがポイントです。そちらに進んで良かった』と。20年かかりました。でも、芸術は厳しい方が良いんですよ。むやみに『面白い』とか『上手』とか、ほめられるのは危ないことです」

 悩み続けた20年。そこまでして続けてきた琵琶の魅力とは?


 「情感豊かな表現ができること、そしてすごい歴史です。1000年以上ですよ、琵琶は。楽琵琶は平安時代の初期から入って来てずっと続いてます。そこからいろんなスタイルが生まれた。それらが各々違うところがまた面白い」

 ある種、伝統的なものはそれぞれが閉鎖的なため違いが出る、ということもある。しかし、だからこそ、現代まで残ったのだと、ギニャールさんは言う。


 「ヨーロッパでは、中世の吟遊詩人(ミンストレルなど)が無くなってしまいました。個性が重要視され、自由なのは良いけれど、完全に個々が自由気ままにやっていたら、スタイルはその人で終わり、やがて無くなってしまう。伝わらないのです。日本では伝承する、または極める“道”ですね。私が師匠の山崎旭萃先生に教えてもらった大事なものも、そういう道です」


 個性はその中で自ずと生まれるのだ。


 ヨーロッパの方が古いものを大切にしている印象があるが、むしろ、歴史を見直すようになったのは19世紀からのことだという。


 「モーツァルト(1756-1791)の時代、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)を知る人は、ウィーンでも5〜6人しかいなかった。もう古くさい存在でしかなかったからです。日曜日の午後にバッハの研究会を開いていた貴族がいましたが、それは、とっても珍しいことだった。モーツァルトは20歳のときにそこでバッハの『平均律』を知ってびっくりした」

 モーツァルトの時代に知られていたのはバッハの末息子ヨハン・クリスチャン・バッハ(1735-1782)だった。そして、メンデルスゾーン(1809-1847)がライプツィッヒで「マタイ受難曲」を見つけて、1829年に復活させ、演奏。その時からバッハが再評価され、それ以降、古い曲も演奏されるようになった。


 「ショパン(1810-1849)はバッハが大好きだったんです。彼が習っていたドイツ人の先生が珍しくバッハの音楽をまだ若いショパンに教えた。しかし、バッハは古くさくて恥ずかしいことだったから、ショパンは自分が好きなことをパリのサロンでは隠していた」


 絵画も同様の状況だったという。そして、音楽史や美術史といった歴史が専門的な学問として本格的に始まる19世紀になって、古いものが見直されるようになった。

青い目の琵琶法師 日本の伝統を受け継ぐスイス人音楽学者 - SWI swissinfo.ch

 しかし、はじめ、研究生として大阪学院大学に留学した頃、山口修先生に「研究だけでなく、実践も」と近くに良い先生が住んでいるという筑前琵琶を勧められたときは気が進まなかった。それは、筑前琵琶が明治中期からのもので、せめて500年の歴史のある(戦国時代からの)薩摩琵琶をやりたいと思っていたから。だが、今ではもちろん「芸術で大事なものは人間の芸術家の能力と意識。500年前にできたものでも良い先生がいなかったら意味がありません。一流の琵琶奏者、山崎旭翠先生に教わることができたことは素晴らしかったと思います」と悔いはない。

「この楽譜は非常に賢いのです。凄いですよ。この世界は信じられないほど…」と興奮を隠さずに琵琶の譜面を見せてくれる。字の書いてある初めて見た譜面は素人目には楽譜には見えないのだが、「4つのフレット(柱)に4つの弦に開放弦、20種類の音のために記号が違う…凄く合理的です」と説明してくれる。「欧州では楽譜は400年ぐらい前にできたもですが、中国ではすでに1200年前からあったのです」と誇らしげだ。ギニャール氏いわく、正倉院に行って見られる完成度の高い工芸品と同じ「1200年前のものがこんなに凄いものと思わなかった」と。

 ギニャール氏に音楽の才能があるのも無理はない。スイスきっての芸術家家系の出身だ。父親はローランド・ギニャールといってキュービズムの画家で当時は売れっ子画家。祖母エセル・マシューズはビクトリア時代のロンドンで初めての女性プロピアニストだった。彼女にピアノの手ほどきを受けたギニャール氏だが、その厳しい祖母に「あなたは才能があるけれどピアニストを目指すより、頭がいいから音楽学をやりなさい」と諭された。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141013#1413197420祇園精舎
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130626#1372249013(正師を得ざれば、学ばざるに如かず)