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沢庵禅師:供養祭と漬け込み式 山形・上山 - 毎日新聞

たくあん漬けの考案者とされ、江戸幕府3代将軍・徳川家光に仕えた沢庵(たくあん)禅師(1573〜1646年)の供養祭と漬け込み式が23日、山形県上山市の春雨庵であった。

 沢庵禅師は京都・大徳寺の住持だったが、幕府の寺社引き締めに反発して流罪となり、上山で3年間過ごした。たくあん漬けは、近くの農家からもらって食べきれなかった大根を干し、ぬかや塩に漬けた「たくわえ漬け」が始まりとされる。

沢庵宗彭 - Wikipedia

32歳になった慶長9年(1604年)8月4日、遂に大悟し、沢庵の法号を得た。

配流先である上山藩藩主の土岐頼行は、沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、沢庵に草庵を寄進するなど厚く遇した。沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれている。配流中、頼行は藩政への助言を仰ぐなど沢庵を遇すること実の祖父の如くといい、沢庵赦免後も二人の交流は続いたという。

寛永9年(1632年)、沢庵60歳の年に、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海、堀直寄、柳生宗矩などの尽力により、紫衣事件連座した者たちは許された。

大徳寺に戻った時、将軍・徳川家光の上洛に際し、天海、堀直寄、柳生宗矩の強い勧めにより、沢庵は家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになったという。

寛永19年、日蓮宗と浄土宗の宗論に立ち合い、家光に「何故両宗は仲が悪いのか」と尋ねられた際、「両宗とも、末法の世に教えを説くために仏法を分かりやすく引き下げてしまったために、引き下げた教えに食い違いが生じ、それ故に宗論が自宗の正しさを示すものになるためです。他宗の場合は同じところに教えがあるので、そうはならないのです」と答え、家光も納得したという(万松祖録)

「武蔵と沢庵との交渉は、まったく僕の創作で、文献には見当たらない」-『随筆宮本武蔵』より

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141123#1416739003(推薦図書 > 『不動智神妙録』『宮本武蔵』)