朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行う。 赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人であり、良雄が活躍した元禄赤穂事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになる。
延宝3年(1675年)、許されて江戸へ戻り、その後の10年間は軍学を教えた。その教えは、後代の吉田松陰などに影響を与えている。
窪田清音兵学門人の英才・若山勿堂の山鹿流兵学門下から、勝海舟、板垣退助、土方久元、佐々木高行、谷干城ら幕末、明治に活躍した逸材が輩出された。
長州藩では吉田松陰が相続した吉田家が代々、藩学である山鹿流師範家となっており、吉田松陰は藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法偏三の講義を行っている。松陰は叔父にあたる玉木文之進から山鹿流を授している。したがって、明治維新で活躍した長州藩の松陰門下生の多くは、山鹿流も習得している。
玉木文之進から山鹿流を講授された長州藩出身の 乃木希典は、明治天皇に殉死する前、学習院長として養育にあたっていた皇太子時代の昭和天皇に、山鹿素行が記した山鹿流の神髄である尊王思想の歴史書・「中朝事実」を自ら筆写して献呈した。