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元禄赤穂事件 - Wikipedia

事件の知らせを受け、家中にことの詳細を伝えることと、今後の対応について3月27日(5月4日)から3日間にわたって城内広間において大会議を開催している。この会議では篭城を主張する抗戦派と、開城して御家再興を嘆願すべきとする恭順派に意見が分かれて対立した。

大石良雄は、当初より開城してのお家再興派だったと言われているが、最初は篭城の主張に賛同しつつ原元辰ら篭城派の支持を獲得するも、篭城しても勝ち目が無いことと御親類へ迷惑が大きすぎるとのことで、藩士一同の殉死をもってお家再興嘆願へという方向での意見集約を得て行く。

江戸詰めの藩士たちは安井彦右衛門や藤井宗茂など赤穂藩から逃亡した者を除いて、吉良義央が存命であることを知り、多くが吉良を主君に代わって討つべしと主張するようになった。

大石は赤穂城無血開城した。明渡しに際しての対応は、実に見事なものであったといわれる。

山科に居を移した直後の大石は、浅野家お家再興を進め、小野寺秀和とともに美濃大垣城へ赴いて戸田氏定に拝謁して浅野家再興を嘆願。また江戸で浅野家再興運動中の遠林寺住職祐海とも書状で連絡を取り合った。

堀部ら江戸急進派は、大石らからは「上野介へ仇討ちはするが、まず大学様のお家再興をしなければならない。時期を見よ」と諭され、赤穂開城を見届けたのち、5月12日(6月17日)には江戸へ帰っていったが6月頃から大石の江戸下向を迫る書状を送りつけてくるようになったが、大石はひたすら浅野長広のため隠忍自重するよう求める返書を書き続け、江戸下向を避けた。

年末からは脱盟者も出始め、同志の1人萱野重実は父の萱野七郎左衛門と浅野家への忠孝の間で苦悩して自害、橋本平左衛門も遊女はつと恋仲となり、忠義を捨てて彼女と心中してしまった。また江戸急進派の中心人物の高田郡兵衛も旗本内田元知との養子縁組騒動を機に脱盟した。高田の脱盟は江戸急進派の面目を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。大石良雄はこれを好機として元禄15年2月15日(1702年3月13日)の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定する。

この頃、お家再興が難しい情勢となり、元禄15年7月18日(1702年8月11日)に、幕府が浅野長広に広島藩への永預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは完全に絶たれる。大石良雄も以降は討ち入り一本と決め、堀部ら江戸急進派との対立はここに解消された。7月28日(8月21日)、大石は、堀部武庸も招いて京都円山で同志との会議を開き、本所吉良屋敷への討ち入りを決定した。

また大石良雄はお家再興だけを目当てに盟約を参加していた者がいるであろうことを鑑みて、大高忠雄と貝賀友信に同志を訪ねさせて義盟への誓紙を一度返却させ、盟約から抜ける機会を与えた。大高忠雄たちは誓紙の返還を拒んだ者だけに仇討ちの真意を伝えた。この行為は「神文返し」と呼ばれた。

道中の富士で大石良雄曾我兄弟の墓を詣でたという。

10月23日(12月11日)には鎌倉へ到着。ここで吉田兼亮らが大石を出迎えた。さらに吉田らが用意しておいた川崎平間村の軽部五兵衛宅の離れに滞在する。大石はここから同志たちに今後の綱領「訓令十カ条」を発した。

吉良義央在邸確実の日を探るため、大高忠雄(脇屋新兵衛)を茶人山田宗偏に弟子入りさせる。宗偏は本所に茶室を構えていたので吉良義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。その宗偏から吉良家の茶会が元禄15年12月14日(1703年1月30日)にあることを聞き出した。しばしば吉良邸に招かれて、『源氏物語』や『伊勢物語』を進講したり、歌の指導をしていた国学者荷田春満が大石良穀の友人であったので、春満を通じて吉良邸茶会が12月14日にあり、その日は泊まり客があるとの情報を当日の夕刻、兄で弘前藩家臣の大石良麿とともに、米沢町の堀部金丸宅を訪れた大石良穀から入手。大石兄弟は父の大石良総と相談して知らせに来た。大石良雄はそのときはじめて春満の存在を知って討入予定がなぜ漏洩したのか不審に思った。しかし、確かな情報と判断し、この日元禄15年12月14日(1703年1月30日)を討ち入りの日と決定した。

12月2日、頼母子講を装って全同志が深川八幡前の大茶屋に集まった。このときに討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。

山鹿素行が赤穂に配流になった縁で藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していたとされるが、実践における戦術・戦法ではなく儒教的な色彩の武士の心得というものであった。

実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。

赤穂浪士は討ち入りに際して上杉家からの援軍と、引きあげ時の追撃を警戒していた。実際に上杉家では藩邸に討ち入りの報が入ると、直ちに数人を出して様子を探らせ、赤穂浪士に対抗できるだけの人数を集めていた。そうしているうちに吉良義央が討ち取られて、赤穂浪士たちは引きあげてしまったという報告が入った。やがて、幕閣から上杉家へ赤穂浪士の処分は幕府が行うので上杉家は手出ししないよう命じられてしまった。上杉家は幕府の命に従う外なかったが、世間からは腰抜けと冷笑されたといわれる。

討ち入り後は、吉良邸内の厳重な火の始末をし、吉良義央の遺体を寝所に安置した後、吉良の首は潮田高教の持つ槍の先に掲げられ吉良邸を出発し、当初は回向院へ向かったが受け入れられず、浅野長矩の菩提である高輪泉岳寺に向かった。この時、吉田兼亮・富森正因の両名を、討ち入りの口上書の写しを持って大目付仙石久尚のもとに出頭させた。辰の刻(午前8時ごろ)泉岳寺に着き、住職酬山長恩によって受け入れられ、墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。また、この際に吉田兼亮の足軽寺坂信行が立ち退いており、赤穂浪士は46人となっていた

赤穂浪士より申し出を受けた大目付仙石久尚はすぐさま江戸城へ登城し、月番老中稲葉正往へ報告され、泉岳寺からの届け出で寺社奉行阿部正喬から、町方からより町奉行松前嘉広からも報告を受ける。赤穂浪士はいったん泉岳寺から仙石久尚の屋敷に引き揚げさせ、老中による幕閣の協議が行われ、協議内容は将軍徳川綱吉へ上奏され、46人の赤穂浪士は、細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の4大名家に預けさせた。浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである。もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。

赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士には賞賛するものもいた。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か切腹か助命かで対応に苦慮した。幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、磔獄門を主張した者もいた(『柳沢家秘蔵実記』)。その一方で、主君仇討ち事件に大いに感激した幕閣もいて、その内部でも意見の違いがあった。彼らを中心に構成する将軍の諮問機関である幕府評定所は12月23日(2月8日)に「一、内匠頭には少々存念があったようなので、その意を家臣が達するためにやむをえずに大勢で示し合わせた場合は徒党とは言いがたい。一、内匠頭家臣達は真の忠義者であるので、このままお預りにしておき、いずれは赦免すべき。一、吉良上野介家臣達で戦わなかった者は侍とは認められないので斬罪に処すべき。一、上杉綱憲は父親の危機に何もしなかったので領地召し上げにするべき」という浅野家寄りの意見書を将軍綱吉に提出したともいわれている。
学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は「46士の行為は、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、をまぬがれることはできない」と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた。「浅野は殿中抜刀の犯罪で死罪なのに、吉良を仇と言うのはおかしい。幕府の旗本屋敷に乗り込み多数を殺害する騒動には死罪が当然」というのが江戸幕府の見解ということになる。
こうしたなかで将軍綱吉は徐々に助命に傾き、皇族から出された恩赦という形を得るため、輪王寺門主として上野寛永寺に居住する公弁法親王に拝謁し、それとなく法親王から恩赦を出すよう依頼するに至ったという説がある。
しかし法親王は「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか。おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。だが、今死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。時には死を与えることも情けとなる」と述べ、これをもっともと考えた将軍綱吉は赤穂浪士切腹を命じることを決意したという説もある。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141124#1416825690
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141118#1416308683
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141105#1415184036
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141022#1413974505