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しんじけ

首が切断されてもいい、という覚悟をもって哲学と思想運動をしている方たちには、こうは自分はなれないという畏敬の念を抱くとともに、恐怖のようなものもある。

うどこ

この一頁500回くらい読んだ

恩寵 - 祈りの小道

しかし、わたしたちはこのような病、あるいは試練にぶつかったときに初めて、
考えるという、人間にしか与えられていない能力を用いるのです。

それをキリスト教では恩寵といいます。

宗教と倫理 第4号 - 宗教倫理学会

修行における生と死の問題
白隠禅師の場合 ―
アンナ・ルッジェリ
(立命館大学・常勤講師)

禅の修行において「生死」の問題は非常に重要である。小論では、禅宗で「大死」と
呼ばれる自己の「転換点」を、徳川時代の日本臨済宗の代表的な禅者である白隠慧鶴 (1685-1769)の言説を通して、その性質を明らかにするものである。

人は誰もが現在生きている。自らがいつか死に至るということは理解できる。それは、 通常他者に生じる現象としてのみしか認識することが出来ないが、しかし、自らによっては死の体験が不可能であるが故に、却って死の恐怖は実際に自らが死に至るまで人を苛み 続けるのである。そして、そのような不安や恐怖は自己の本質に対して無知であるために 生じるのである。

唐代の禅者六祖慧能(638-713)は次のように説く。

五祖(弘忍)はある日、諸々の弟子達を集めて次のように言った、「全員ここに集まれ。私はいつも君達にこう言っている、『世の人々にとって、生死のことこそが重要なのだ』と。君達は一日中供養し、ただ功徳を求めるばかりで、生死の苦悩(という肝心な問題)から出でようとはしない」。

ここで五祖が表明する「生死事大」とは、禅者にとって「生死」の問題こそが究明すべ き最大の課題なのだ、ということである。

白隠はこの「生きながら死ぬ」という大死について、次のように例える。

真実見性した優れた者でなければそこのところは簡単には分らないのであろう。真の無我に契当しようと思うならば、何と言っても、まず懸崖に手を撒して絶後に再び蘇らねばならぬ。(中略)懸崖に手を撒するとはどういうことか。誰も踏み入らぬ山中で道に迷い、底のないような高い断崖に出た。絶壁にはすべりやすい苔が生え、足の踏み場もない。進むことも退くこともできぬ。ただ頼むところはわずかに生えている蔦葛 。これにすがって、ようやくしばらく命が助かった。しかし、手を離せば、たちまち真っ逆さまである 。

ここで白隠が述べる「懸崖に手を撒する」という言葉は、崖につかまっている手を放すことであるが、それは大変に恐ろしいことである。つまり、それは徹底した不安を表した譬喩である。このような存在そのものに対する不安が「大疑」であり、そして、白隠はそのような大疑を超えて更にその先に向かって進んで行かねばならないことを主張するのである 。
ところが真の修行者ならば、大死一番によって、「命根を截断するところ(から)...絶後に再び蘇る」ことになり、「その死にきったところから、今度は豁然として息を吹き返すならば、その当人でなければ分からぬ大歓喜を味わう」ということになるのである。

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