https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

利他の生命論 |自由詩人!松尾多聞のブログ
十如是 - Wikipedia

【そもそも人間学とは何か】八条目は本末究竟等

本来の意味は、そんな時間的な前後次第を表現したものではない。同時存在・同時作用たるべきもので、実際は、仏教の言葉を借りれば、「本末究竟等(ほんまつくぎょうとう)」であります。

ちょっと説明しないといけませんが、いったい学校の散漫な受験勉強というものは、およそ駄目であります。世の中に何が楽だといって教授商売ほど楽なものはないので、あんなものはきわめて形式的なもの。本当の学問とは道楽でなければいけない。その代わり年季を入れなければできません。私など一生道楽に学問してきた人間であるが、最初は親たちから七〜八歳の時に初めて『大学』をやらされた。いまどきの先生はそんな教育は乱暴だというが、決してそうではない。そういう先生の頭が浅薄極まるから乱暴に見えるのです。今でも子供の時に教わったものほどよく憶えている。学校で教わりだしてから得た知識などというものは、だいたいみな忘れてしまっております。すべて学問というものは、根から養分を吸収して、幹が出て、枝が延びて、それが分かれて小枝、その先端に葉がつき実がなる。そしてそれがまた落ちて、肥料になって、新しく芽をふいてゆく、というように自然に伸びてゆくべきもの。自然に伸びていって、それが分裂せずに自らひとつの体系をなしてゆく。これでなければ本当の学問ではない。我々はまず『大学』から始まって、「四書五経」を教わった。それがある年齢に達したころに、自分から「面白いなあ、なるほどなあ」と考えるようになる。最初は与えられたものだが、だんだんそれが生命化してきて、「よし、ひとつ儒教を勉強してみよう」と今度は自発的に読みだす。孔子の伝記をやるうちに、どうしても孟子をやらねばいかぬ、今度は荀子をやらねば気が済まぬ、というようにだんだん枝葉に分かれてくる。そうすると孫子呉子韓非子などというものまで関連してきて、今度はそれに道楽をする。そのうちに今度は自然に老荘にもわたり、どうしても仏教をやってみなければならなくなる。かように儒教を研究しながら、年季をかけて道楽していると、自然とあらゆる教学に入ってくる。桃栗三年柿八年というが、人間の学問はやはり二十年、三十年と年季をかけて初めて生きた学問になる。 樹木が自然に伸びて、枝葉を張り、花を開いたり、実を成らせたりするのと同じことです。ところどころで果物ができる。それを「智果」という。「智果」はときどき著書になったり、詩になったり、偈(げ:仏語。経典中で、詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩(ぼさつ)をほめたたえた言葉。4字、5字または7字をもって1句とし、4句から成るものが多い)になったり、議論になったり、学説になったりする。同様に「徳果」というものができる。これにも小さな果物と大きな果物がある。要するに、学問というものは道楽にやらぬといかんので、講演・講義も、本当は道楽講義でなければならない。何を話すのやらわからぬというのが本当の講義なので、ちゃんと下書きを作ってきて、予定どおりに進行するなどというのは机の上の知識の伝達にすぎない。あんなものはよほどの馬鹿でない限りは誰にでもできる。人生でもそうです。本当の人生とは、どこへゆくのかわからない。そういう訳で少々脱線?ではなくて、つまり枝を一本出して、「十如是」を申したわけです。

人物を創る―「大学」「小学」 (人間学講話)

人物を創る―「大学」「小学」 (人間学講話)

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141228#1419763102
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20141215#1418639903