この週刊紙は批判や諧謔で知られているが、イスラームとムスリムに対して執拗に挑発を繰り返していたので、過激派の敵意を受けてきたことは確か。
今のような時期に、イスラーム主義過激派がこのようなテロで報復したのであれば最悪の結果をもたらす。フランスには500万とも言われるムスリムが暮らしており、彼らに対する差別や排斥が強まることは確実。
事件の真相は不明なので慎重でなければならない。シャルリ・エブドを恨んでいるのはイスラム過激派だけではない。あくまで、同紙に敵意を持っている個人や集団のうちの一つがイスラム主義の強硬派だということしか今の時点ては分からない。
シャルリ・エブドに対するテロ。表現の自由と信仰への侮辱は、永遠に平行線。信仰への侮辱に怒る人に表現の自由を理解しろと言っても全く通じない。ただし、犯人がイスラム主義過激派だとするなら、預言者やイスラムに対する暴力的応答を抑止できないことも理解しなければならない
暴力の応酬。やりきれない思いだが、大見得切って表現の自由を主張するなら、軍事力で中東に介入し、市民をも犠牲にするやり方を止めなければならない。
フランスが、ライシテ(一応、世俗主義と訳す)を共和国の原則とするのは、フランスの歴史そのものであって何ら否定すべきことではない。しかし、聖俗分離の観念がないイスラム教徒にライシテを押しつけても絶対に通じない。
ムスリムがスカーフを着用してリセに通うことを禁止し、公的な場での顔を覆う「ブルカ」禁止と罰則まで定めた。だがブルカはアフガニスタンの衣装でフランスで着用している人はほとんどいない。一種の見せしめ的刑罰まで科してムスリムの服装に干渉する姿勢は、イスラムに敵対的とみなされても仕方ない
イスラムがどうこう言う以前に。誰しも本当に愛している人や物でも、あからさまに否定され、侮辱され続けたら怒る。ムスリムにとってイスラムの始祖ムハンマドは何者にも代え難い敬愛の対象。それでも表現の自由に暴力で応答するなと言ってもよいが、母集団が15〜16億。
10万人に1人がテロで一矢報いるとしても1万5000人に達する。冷静に考える必要がある。実際、酷い侮辱や差別を受けながら、イスラム過激派なるものがテロを起こす率は極めて低いのである。世界の人口の4人に1人にあたる信仰者を力で押さえ込むのか、対話による共生を志向するのか?
こういう事件が起きるとイスラムの不寛容が必ず論じられる。だが、不寛容な側面が表に出てくるのは、植民地支配を詫びることもせず、今なお軍事力による市民の殺害を繰り返しているからではないかー欧米諸国がそれを自省しない限り暴力の応酬は続く
フランス共和国がライシテを原則としているのだから、イスラム教徒もフランスに暮らす限りその憲法原則を守れ。その通り。だが、第一世代の移民は信仰実践に無関心だった。世代が代わるにつれ、イスラムの再覚醒が進んだは何故か?フランスで教育を受けた世代が何故、信仰実践に熱心になったのか?
長年にわたってフランス社会は、その答えをイスラムの後進性に見出そうとした。だが、再覚醒する若者を創り出したのがフランス自身ではないかと疑ってみようとはしなかった。
イスラム自体に、聖俗分離の観念はない。社会のある部分は宗教と無関係でなければならないと言われたとき、行動様式が世俗化しているムスリムはそれに合わせる。しかし、一度、再覚醒してしまうと、聖俗分離を受け入れなくなる。だからこそ、なぜ彼らを再覚醒させてしまったのかを考える必要がある。
冷戦終結後、欧米諸国からすぐに出てきたのは、次なる脅威はイスラムだという主張だった。93年にはハンチントンが「文明の衝突?」で、欧米諸国の政治家と軍産複合体にとって実に都合の良い話を持ち出したではないか。
そのころから今日まで、中東・イスラム世界だけでなくヨーロッパでも、イスラム教徒に対する殺戮、差別、排斥がどれだけ繰り返されたかを自省せずに、「表現の自由」や「テロとの戦い」を主張することが、どれほど彼らに嫌な思いをさせてきたかを知るべきである。
同じ日にイエメンでは警察学校へのテロで30人が死亡。しかし、亡くなった人達への連帯、テロを憎む連帯の声は?→ http://www.sabanews.net/ar/news383409.htm
“@AlArabiya_Eng: Saudi Arabia condemns ‘cowardly terrorist’ #ParisShooting http://ara.tv/ppdk4 ”←サウジのようなおよそ民主主義も表現の自由もない国もエジプトのような軍政の国も
テロを憎むと声明。サウジはイスラム国家を名乗るもアメリカの軍事援助に依存し、エジプトはイスラム政党の政権をテロリスト呼ばわりして軍がクーデタを起こした国。イスラム主義過激派の敵意は、これらの国や、ムスリムを虐殺するシリア、スンナ派を疎外したイラクに向かっていた。
それがフランスの新聞社に向かったのは、預言者ムハンマドの冒涜が直接の引き金に見えるが、マリやイスラム国に対する武力行使も背景にあるだろう。バグダーディを茶化したことは原因とは考えにくい。
私が1996年に『アッラーのヨーロッパー移民のイスラム復興』(東大出版会)を書いてから20年。フランス、ドイツ、オランダ…どこに移民したムスリムも、世代が代わるにつれて、世俗的だった人々が再覚醒していったのかを分析した。このまま行けばホスト社会との間に溝が深まると考えていた
2004年に『ヨーロッパとイスラーム』(岩波新書)を書いたころには、すでにテロは米国を襲い、ヨーロッパ各国では、テロの予兆が出ていた。
2009年に『イスラムの怒り』(集英社新書)を書いた頃には、マドリード、ロンドンのテロが発生し、ヨーロッパ社会とムスリムの関係は極度に緊張していた。ムスリムが何に怒るのかを書いた。お前はテロリストの言い分にも理があるというのか、と批判された。
2011年『イスラム、癒しの知恵』(集英社新書)。イスラムの中の寛容と生きやすさの知恵を知ってもらおうと書いたが、全く売れなかった。
言論の自由は何物にも代え難い基本的権利である。西欧社会では、ペンと紙で戦う。それを銃で封じる蛮行は断じて許せない。だが、それならアフリカや中東で、武力によって紛争に介入することも止めなければならない。左手がやっていることを右手は知らないと言い張るようなものだからである。
イスラム教徒もテロが憎むべき犯罪であることなど当然理解しています。暴走し暴力に向かう信徒をなくすには、宗教を諧謔や嘲笑とすることもレイシズムであるという認識を持たねばなりません。他人が命に代えても守りたいもの散々嘲笑するなら、ジャーナリズムもレイシズムに加担することになります。
テロリストは非道な殺人犯であるのだから法によって裁かなければならない。これでもし、フランス共和国が、かつて米国が行ったように、軍事的手段で中東やアフリカに介入するのならば、法の裁き以上の暴力を無関係な人びとに行使することになる。そのことが新たなテロの温床になる。
西欧社会では無神論者であっても差し障りはない。宗教は選択的なものであって個人の自由意志にゆだねられる。したがって、イデオロギーと同様、非難することも侮辱することも言論の自由のうちに入る。繰り返しになるが、イスラム教徒にとってはこれが通用しないのである。その点で、両者は共約不可能な
関係にあることを非イスラム教徒の側は認識する必要がある。啓蒙の圧力をかけたり、武力を行使して市民を傷つければ、「水と油だ」と思い込むイスラム教徒を増やすだけである。そうなれば、実際に率は極め低くても母集団が十億を超える人びとの中から暴走する若者が出ることをとめられない
フランス、移民は「個人として」フランス社会に統合される。決して、アルジェリア人とかモロッコ人などの民族単位で統合されるわけではない。だが、彼らが社会の底辺に位置づけられ、差別にされされた時、自分はアルジェリア系だから差別されたと感じる。
しかし、フランス社会は、そうは認識しない。あなたを差別したその個人が悪いのであって、フランス社会はアルジェリア系移民を差別することなどないと答える。いつまで経ってもフランスの差別問題は空回りしてきた。そこに、移民の属性としてイスラムが加わった。
個人主義を嫌うイスラム、個人の自由を認めないイスラム、世俗主義に従わないイスラム、女性を差別するイスラム、暴力的なイスラム…ありとあらゆる非難が移民たちに投げつけられた。確かに当たっていることも多い。
だが、自由にせよ、女性にせよ、「向こう岸」から見たらどう理解されているのかを謙虚に学ぶ姿勢は、フランスに限らずヨーロッパ社会には決定的に欠けていた。
フランスのムスリム移民の若者たちに差別が嫌なら帰ればいいと言えるだろうか?彼らは、今回の容疑者も含めてフランス国民である。ならばフランスのルールに従えという主張も必ず出てくる。
だが、多くの移民二世や三世が自分は何者だろうかと自問自答し続けた結果、一部はムスリムとして再覚醒する道を選んだ。彼らは、信仰の中に心の平安を見いだしたが、今度はイスラムが内面の信仰だけでは成り立たず、信仰実践が必要であるがゆえに、フランスの世俗主義原則とぶつかることになった。
嫌なら帰れというのは、極右国民戦線の常套句である。
最大の懸念は、テロリストに法の裁きを受けさせることにとどまらず、不人気なオランドとオバマがタッグを組んで、中東への軍事介入を強めることである。「テロとの戦い」がさらなる暴力を生み出し、イラクやリビアやシリアを破壊したことを忘れてはいけないと思う。
風刺画でテロかよ、というツイートもたくさんある。その通りだ。だが、西欧諸国の表現の自由、言論の自由でも、人種を侮蔑できるか?民族を嘲ることが許されるか?実は、歴史の中で、西欧といえども、タブーは存在する。問題は、宗教に関しては、人種や民族とは違うと思い込むこと。
改宗ムスリムの場合はイスラムを選んだのだが、ムスリムの家に生まれた場合はムスリムになってしまう。北アフリカからの移民の多くはこのケース。彼らに、ムスリムなんかやめてしまえば、というのは人間やめたら、というように聞こえることを理解してほしい。(確信して無心論者になった人を除き)
従って、ムスリムであること、というのはトルコ人であるとか、モロッコ人であるという民族への帰属と同じくらい、抜くことができない属性であることが多い。移民たちが、ムスリムとして覚醒してしまうと、もはやフランス共和国との衝突を覚悟せざるを得なくなる。(暴力的衝突を必ずしも意味しない)
だからこそ、たかが風刺画といっても、彼らの信仰にとって絶大な尊敬の対象であるムハンマドを軽侮するのは、ムスリムにとって人種や民族を嘲笑されたも同然になってしまう。
パリのテロ事件を、イスラムとキリスト教の文明の衝突とみている人もいますが、完全な間違いです。シャルリ・エブドは、世俗主義の国フランスを体現しているのであって、キリスト教に対しても厳しい挑発を繰り返しています。
イスラム教徒の側には欧米諸国を嫌う人も多い。だがそれは、軍事力をはじめ力で彼らを支配する「西洋」を嫌うのであって、キリスト教だから嫌うのではない。
今日の夕方、関西テレビ、アンカーでフランスのテロについてコメントします。